雲七は夜空を駆け世田谷のお袖稲荷へ戻った。すでにそこには豊川とお袖が揃って待っていた。
雲七は子供たちを地面に降ろすと、お袖に頭を下げた。
「めんぼくねえ。あんたから預かった赤ん坊をあやうく殺してしまうところだった」
お袖はなにも言わずに子供たちを見つめた。
空を飛んできた子供たちはその興奮に頬を赤くして辺りを見回している。
「おめえらも身寄りがねえのか? 家へは帰れるのか?」
雲七は年長の子供に聞いた。
「おら、家にはかえれねえ」
子供は首を振った。
「帰ったらまた売られるだけだ。あとこいつらは身寄りがねえそうだ。こないだの火事で家も親もねえんだ」
そう言って自分より年下の子供たちの肩を抱く。
「それは………どうしましょうかねえ」
雲七は困った顔で空を仰いだ。
「それならおまえたち、狐になるかえ?」
その様子を見ていた豊川が子供らに聞いた。
「あたしたちは人の子を育てることはできない。だけど狐の仔なら育てることはできる。人だった記憶も心も捨てて、狐になって野に生き、野に死ぬかえ?」
豊川の声に応えるように、木々の間から狐たちが顔をだした。小さな子供らが「わあ」と歓声をあげる。
「………おら、狐になる」
年長の子供は豊川を見上げて言った。それに豊川は厳しい顔をした。
「狐になっても幸せになれるとは限らないよ。狼に食われるかもしれない、人に狩られるかもしれない」
「それでも」子供は涙を浮かべた。「人のままで人に狩られるよりはましだ」
「わかったよ」
豊川はうなずき、他の幼い子供らを見つめた。
「お前たちもいいね?」
わかっているのかいないのか、幼い子供らもうなずいた。
「姐さん………」
「他にしようがあるかい?」
問われて雲七はうつむき、首を振った。
豊川の手が子供の頭を撫でるとその姿は小さくなり、みるみる金色の仔狐へと変化した。仔狐たちはぴょんと飛び上がり、互いに匂いをかぎ、くすぐりあった。
「さあ、いきましょう」
お袖が狐の姿となった。子狐たちは最初から家族だったようにお袖狐の元へと駆け寄る。お袖が尻尾を振って駆け出すと、子供たちもついて駆け出した。
月の光の中で草の波が揺れる。狐の駆けたあとに夜露が散って闇の中にきらきらと降り注いだ。分けた道筋は………すぐに紛れてしまった。
「最初からこうすればよかったのさ」
豊川は苦々しげに呟いた。
「それを、人の子は人が育てるべきだとお袖が言うから」
(結局あの子は名前をもらえなかったのだ)
雲七は胸が痛い、と思った。妖夷となったのに、なぜだろう。こんな感情ばかりあとに残る。
「哀しいのかい、雲の字」
「ええ」
「でもそれはあんたのせいじゃないよ」
豊川はじっと雲七を見つめた。
「あんたが哀しいのは竜導の願いが叶えられなかったからなのさ」
「そうかもしれません」
雲七はうなずいた。
「あっしの人としての部分はあの人のものですから」
豊川は黙っていた。冷たい美貌からはどんな感情もうかがえない。
「姐さん」
雲七は豊川に向き合って、頭を下げた。
「頼みます、このことはくれぐれも往さんには内緒に」
「あんたはあの人間を甘やかしすぎだよ」
「往壓さんはあの赤ん坊が小間物屋のもとで幸せになってると思ってるんだ。これ以上、人の世に絶望させたくないんですよ」
「本音かえ」
「本音ですよ」
「そうかねえ」
豊川はにやりとして雲七の胸の辺りをぽんと叩いた。
「今夜はつきあいな」
「あの赤ん坊はどうしているかなあ」
時折往壓がそう呟くことがある。
「神田に様子をみにいきますか?」
雲七はなんでもないふうを装ってそう応える。往壓は少し考えてはいつも「いや、やめとこう」と首を振る。
往壓は決して神田には行かないだろうことを雲七は知っている。今は新しい親のもとで幸せに暮らしているだろう赤ん坊のもとへ、浮民である自分が顔をだせばまずいと思っているのだ。
「おい、雲七。………どうした?」
だから往壓がそう言うと雲七は黙って往壓を抱きしめる。往壓がすぐにそのことを忘れるように、他に気を紛らわせるようにと。
「雲七、雲七………どうしたんだ………」
うっとりと往壓が名を呼ぶ。それでも雲七はまだ哀しいのだ。