馬たちがその気配に足を踏み鳴らし、甲高くいななく。
雪輪が顔をあげると厩の戸口に異形が立っていた。
「これは………豊川の姐さん。どうなすったんです」
豊川狐は獣の面に妖艶な女の顔を写すと、にぃっと笑った。
「ちょいとあんたと、あんたの旦那に力を貸して欲しいことがあってね」
するすると音もなく近づいてくる。ますます騒がしくなる馬たちに、雪輪は足をどん、と踏みらなした。とたんにみんなぺたりとしゃがみこんでしまう。
「あっしと往さんの力ですって? お江戸数千の稲荷を束ねるあんたが?」
「伊勢屋、稲荷に犬の糞ってね。数があっても犬の糞ほど役に立たないときもあるんだよ」
そう言いながらも豊川は笑っている。雪輪は首をひねったが、「往さんに危害がないことなら」と請け負った。
「遅いねえ」
雪輪が往壓を乗せて飛んできた先は世田谷のはずれだった。赤い鳥居の前で豊川
が待っている。雪輪が地面に降り立つと、豊川はしかめ面で言った。
「勘弁してくださいよ。稲荷を伝ってあっという間に移動できるあんたと違って、こっちは吉原から身体一つで飛んできたんだ」
雪輪の姿が金色に闇に溶け、人の姿となる。その隣に往壓も立った。
「で? 俺たちに頼みってなんだよ」
「こっちへ」
豊川が背を向ける。その前には小さな山へ続く石段があり、赤い鳥居がいくつも並んでいた。
「山の上まで飛べばよかったんじゃねえのか?」
「人の家に直接乗り込むつもりかえ? 玄関から入るのが礼儀だろ」
雲七に囁いた言葉を耳聡く聞き取られ、豊川が叱る。往壓はへえへえと頭をかいた。
石段を登り鳥居をくぐり、着いたのは小さな社の前だった。そこに在所の農婦のような姿の女がいた。豊川を見て深々と頭を下げる。
「こっちはお袖。このあたりの鎮守を担ってる」
「えっと、………狐なのか?」
「そうだよ、稲荷だからね。
お袖はもともと世田谷に棲んでいた狐なのさ。五匹の仔の母親でね。残念ながら4匹まで病でなくしちまって、最後の一匹をそれこそなめるようにかわいがっていたのさ。
ところがその仔が川へ流されてね、助けようにも狐には川の流れが早く深い。子供を追いかけて走るしかなかったのさ。
それを見ていたこのあたりの人の子が、川へ飛び込んでお袖の仔を助けてくれた。
だけど仔狐を岸へあげるとその人間の子供は力尽きて流されて死んでしまった。
お袖は夜中にその人間の子供の家へ行ったのさ。そこで母親が嘆き悲しんでいるのを見て、ああ、狐も人間も子を持つ母親の気持ちは変わらない、あたしの子供は助かったけどあの人間の子供は死んでしまった。なんて悲しい、申し訳ないことだろうって思ったんだとさ。
お袖は自分の仔が成長して子別れをしてから神様にお願いしたのさ。
どうか自分の仔を助けて死んでしまった人間のために、人のために私の命を使ってくださいって。
その願いを聞いた荼吉尼天様がお袖を稲荷としてこの地を収めるように使わしたと………あくびしてるんじゃないよ」
「ああ、すまねえ。夜中にたたき起こされたもんだからよ。それで? そのお袖さんはこの土地で人間のために働いているのかい?」
「そうさ。流行病が入らないように疫神を追い出し、害虫がはいってこないように見回って、乾期が続けは天へ祈り、台風が近づけば川が暴れないように河童と談合して。だけどね、あたしたちは物理的に人間にどうこう働きかけることはできないんだよ」
「てことは」
「これをごらん」
豊川は社の戸を開けた。