往壓が捨て子を拾ったという話はなめくじ長屋にすぐに広まった。入れかわり立ち代り、長屋の住人が赤ん坊に振り回されている往壓を見に来る。とりあえず赤ん坊の乳は長屋の連中のつてというつてを頼って、今のところどうにかなっていた。
「こんなところにまでつれてくることはないだろう」
小笠原が眉を寄せた。
前島聖天の境内に腰を下ろし、往壓は腕の中の赤ん坊に飴をしゃぶらせている。
「んなこと言ったって長屋においておくわけにはいかねえだろ」
「世話をしてくれる女がいるのではないか?」
「かみさん連中はあれでみんな忙しいんだ」
「まあまあ。いいじゃないですか、お頭。おとなしい子だし」
元閥がどこからか持ってきた飴の袋を開けて赤ん坊に渡す。
「なかなか似合いますね、竜導さん」
にこにこしながら赤ん坊の頬をつつく。
「名前はつけたんですか?」
「いや」
「名無しのまま?」
「下手に名をつけると情が湧くしな。それに子供の名前は………親がつけるものだ」
往壓の言葉に少しはなれた場所に居た宰蔵が顔をあげる。往壓が見返すとぷいと顔をそらした。
「かわいいですねえ。ところてん食べるかな?」
「だめだ、江戸元」
アビが声をかける。
「赤ん坊にところてんなんか食べさせたら、そのまんまでてきてしまう」
「うわ、それもちょっと見てみたい」
「とにかくお前らもこの子の養い親になってくれそうな人間、当たってみてくれ」
「狐がくれた赤ん坊ですか」
アビも顔を覗き込んだ。
「どんなふうに育つのやら」
往壓が赤ん坊を抱いて長屋に戻ると自宅の前に人だかりがあった。近所の顔なじみ連中が狭い入り口に群がっている。
「あ、帰ってきた、帰ってきたよ」
長屋のおかみたちが往壓を見つけ声をあげた。
「往さん、喜びなよ。赤ん坊の養い親がみっかったよ!」
「ええ?」
「両親揃ったちゃんとしたおうちだよ」
みんなに袖を引っ張られながら往壓が戸口をくぐると、大家と一緒に部屋の中に座っていた夫婦ものらしい男女が立ち上がった。
「往壓さん、こちらは神田にお住まいの酒井屋さんとおっしゃる小間物屋さんでね」
大家がにこにこと相好を崩して紹介した。
「どこからか往壓さんのもらい子のことを聞いてね、ぜひその子を引き取りたいと仰せなんだよ」
往壓は酒井屋と言われた夫婦を見た。金はかかっていないがこざっぱりした清潔そうな身なりの男女だった。どれという特徴のない平凡な顔立ちで、街中にいれば通り過ぎたことにも気づかなさそうだ。
「実はうちでは1年まえに子供を亡くしまして」
男が自分の連れ合いに悲しげな目を向ける。
「それからずっとこれもふさぎ込んでおりました。それが先日出入りの職人さんからこちらで養子先を探しているという話を聞きまして、突然これが引き取りたいと、こう申し始めまして、はい」
「その子供の話を聞いた時、こう胸がぱあっと明るくなったんです」
女は往壓の腕の中の赤ん坊に必死な目をむける。
「子供がなくなってちょうど一年、これも神様のお引き合わせかもしれません」
往壓は腕の中の赤ん坊を見た。赤ん坊はぱっちりとした黒目で往壓を見上げている。小さな手が伸びて往壓の着物の衿をぎゅうと引っ張った。
「そうかい」
往壓はひとつ息をつくと腕を伸ばした。目の前に赤ん坊を差し出された女が反射的に腕を伸ばす。
「そいつは助かった。俺ももうこいつの世話はこりごりだったんだよ」
女の腕に移った赤ん坊はきゃらきゃらと声を上げて笑った。女はいとおしそうに赤ん坊にほおずりする。往壓はその姿をじっと見つめた。
「できるだけ早くその子に名前をつけてやってくれ。できれば死んだ子の名前じゃなくて、新しい、その子の名前を」
夫婦ものは何度も頭を下げて帰っていった。その姿を見送った往壓は空っぽになった自分の両腕を見つめた。たった2日くらいだったがずっと抱いていたのだ。その重みも暖かさももうない。
(いや、これがあの子の幸せなのだ)
世田谷の稲荷神社に捨てられていた不幸な子供が、神田の小間物屋の子供になる。こんな幸せな巡りあわせがあるだろうか。
(じきに慣れるさ)
身体をぴゅうと風が吹き抜けていく。往壓は背を丸め、風を避けて家へと入った。