「往壓さん、江戸元」
廊下の向こうからアビもやってきた。
「ああ、起こしたか」
「あんたらがバタバタ走りまわっていればな」
「宰蔵は?」
「寝てる」
「意外と肝が太いやつだな」
往壓は八畳の障子を開けた。
「壁だ」
続きの部屋のあるはずの場所がしっくい壁になっている。見取り図では襖が描かれているのに。
「ここに隠したんだ」
往壓はアビを見上げた。
「やぶれるか?」
「薄い壁です」
アビはこぶしでこつこつと叩いた。
「さがってて」
アビは投槍を一本握ると、それを上段に構えた。
「せいっ!」
バキッと鈍い音がして壁が破られる。襖の上から直接しっくいを塗ったような雑な壁だった。
あっさりと真っ暗な穴が開く。アビはあとは手をつかってバリバリと板を裂いていく。往壓も及ばずながら手伝い、穴を広げた。
「………」
元閥が袖で鼻を覆う。腐臭が漂ってきたからだ。
「灯を」
往壓の声にアビが行灯ごと灯りを引き寄せた。
「はいるんですか〜」
元閥がいやそうに言う。往壓は答えず穴の中に身体をいれた。
「………これは」
行灯を掲げたアビが息を飲む。
まっくらな狭い部屋はすべて内側が漆喰で塗られていた。窓も扉もなにもなかった。ただの大きな箱のようだった。そしてその壁一面に小さなのこぶしのあとがついていた。
「これは血のあとか?」
往壓は自分の腰くらいまでの高さしかないこぶしに顔をちかづけた。
「畳の上を………!」
灯りで照らすとぼろぼろになった布をまとった白骨があった。その身体の下は真っ黒になっている。崩れた肉と体液と血が固まったものだ。
「この大きさだと大人だな」
「往壓さん」
アビが声をあげた。
灯りで照らされた壁に血文字があった。
ちちうえさま ごめんなさい いいこにしますから だし
ここで力尽きたのか文章は途中で終わっている。
「なにがあったんだ、畜生!」
往壓は壁を叩いた。
ドォン―――
その途端、再び悲鳴と音がはじまった。
だしてえだしてえ
子供が泣き叫んでいる。
よくもわしをうらぎったな
男の声が聞こえた。
ほかのおとことつうじて、ほかのおとこのこをわしのこだと
おゆるしください だんなさま
ええい ゆるさぬ ゆるさぬぞ
女の悲鳴。往壓には男に斬られる女の影が見えた。そして男は泣き叫ぶ子供を漆喰で固めたこの部屋に放り込んだ。
おまえはわしのこではない そのけがれたおんなとここでしぬがよい
ちちうえさま ちちうえさま
よぶなよぶな もうかおもみたくない
男は怯える子供の泣き声を無視して襖を閉めると上から漆喰を塗りだした。扉を封じ込めるために。
ちちうえさま ちちうえさま
だして だして
いいこにするから おねがい だしてえ
子供は血まみれで倒れている母親にすがり、その血で濡れた手で部屋の壁を叩いて回った。
光のない真っ暗な部屋で母親の血を使って父親に謝罪の言葉を書こうとした。だがそれは書ききられることはなかった。
だしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだして
「もういい、もうたくさんだ!」
往壓は悲鳴を上げた。
「アビ、この壁を、この部屋を壊してくれ! ここからだしてくれ!」
アビは無言で投槍を持ち上げた。
漆喰を塗られた襖をすべて壊したとき、日が差してきた。明るい五月の太陽が、母親と子供を閉じ込めた部屋を照らした。
部屋の隅に小さな亡骸があった。壁に向かって両手を伸ばしているそれは、壁をたたきながら死んでいったように思わせた。
往壓は布でその亡骸を包み、庭に下りた。
「ほら、おひさまだぜ」
小さく白い髑髏の、やはり小さな眼窩に太陽の光がさす。
髑髏はなにも言わなかった。なにも聞かせず、なにも見せず、ただ物体として往壓の腕の中にあった。
「これで成仏したと思うか?」
往壓は元閥に問うた。
「もし幽霊が記憶や思いなら、それはあなたが受け取った。あなたの中にはいってしまった。その子の思いはあなたのものになった。その子の思いも悲しみもいまはもう消えたでしょう」
「魂は? 魂はそのへんにいるのかい」
「そうですね」
元閥はまぶしげに朝日に目を細めた。
「きっとその光の中に」