往壓はあてがわれた部屋へ戻ったが布団へはいる気にはなれなかった。寒気はまだ続いている。
(子供か)
泣く、走り回る、壁を叩く。確かに子供の仕業と言えるかもしれない。
小笠原はなんと言ってた? 幼い子供が亡くなっていると。
子供はどうして死んだのだろう。
出して、とはどういう意味だ?
子供はまだここにいるのか? どこかに。
その時、往壓は部屋を横切る子供の姿を見た。
武士の子だ。子供は壁まで走ると壁を叩いた。そしてくるっと振り返りまた反対側まで行って壁を叩いた。
「おい」
呼びかけた途端、その姿は消えた。
往壓は目を開けた。
(なんだ、寝ていたのか)
目を動かして硬直した。
血まみれの女の顔が覗き込んでいたのだ。
「竜導さん」
障子の向こうから元閥の声が聞こえた。往壓はたった今見た女の恐ろしい顔のせいで、心の臓が痛いほど脈打っていたので、すぐに声は出せなかった。
「竜導さん、起きてらっしゃいますか」
「………ああ」
往壓が起き上がると障子が開いて元閥が廊下に膝をついていた。
「どうした? なんか見たのか?」
「そうじゃないんですけどね………」
元閥はそっと入ってきて往壓のすぐそばに寄った。
「どうにも気味が悪くて。ここにいちゃあいけませんか」
「いいぜ」
往壓はすぐに言った。女の顔を記憶から消す。
「俺も気味が悪い」
元閥は寒い寒いと言って布団にはいってきた。触れた夜着が冷たい。
「さっき―――」
往壓は背を起こしたまま言った。
「経験があると言ったな?」
「ああ、―――幽霊の?」
うなずく往壓に元閥は白い笑みを見せた。
「本職は神主ですからね。そういう相談も受けるんですよ。特に遊郭ではそんな噂が立つと客が寄り付かなくなる。まあみんな身に覚えがあるせいでしょうが」
「身に覚え?」
「水子」
元閥が声をひそめて囁く。まるでそこにいるとでも言うように。
「日に何人の男の相手をしてると思うんです? 孕まない女なんていませんよ。それでも仕事はしなくちゃいけない。あそこでは数え切れないほどの命が芽生えては摘まれている」
「そうか、そうだな」
「………伊邪那美命言さく、愛しき我が那勢の命、如此為ば、汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむとまおしき。爾に伊邪那岐命詔りたまはく、愛しき我が那邇妹の命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋立てむとのりたまひき。是を以ちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり。故、其の伊邪那美命を号けて黄泉津大神と謂ふ。………」
不意に元閥が背筋を伸ばして詔のような言葉を吐き出した。
「なんだ、そりゃ」
「古事記傳の一説です。黄泉【ヨミ】の国に妻を迎えに行った伊邪那岐【イザナギ】が、黄泉の住人と化した伊邪那美【イザナミ】に追われ黄泉比良坂【ヨモツヒラサカ】を大岩で封じたとき、かけ合うんですよ。『愛しいイザナギ、あなたの世界の人間を一日千人殺してやろう』、そうイザナミが言うとイザナギは、『愛しい妻よ、それなら私は一日千五百人生み出そう』ってね」
「………お前さんは古事記を知ってたのか」
「神主がなにを拝んでいると思ってたんです」
元閥はひそりと笑った。
「ですからこの国では常に五百人ずつ増えているんです。でも、遊郭では何も生まれない。死者が増えるだけ」
「黄泉の国」
往壓は他のことを考えていた。
「そこは地獄とは違うのか?」
「地獄、という考えは仏教のものですからね。地獄の存在はひたすら仏に救いを求めるために作られたものです。面白いことに伴天連の教えにも地獄はあるんですよ。苦痛に満ちて罪を贖うという地獄が。でも日本古来の神道では地獄はありません。あるのはただ死者の国、黄泉の国、根の国」
「ただ死んでいるだけと?」
「そうです。しかも人はそこにはいきません。神道では死後の世界は人を脅かすものではないのです。死ねば人は魂となりその人の家や子孫を守るというのが神道の考えです。そしてやがて忘れ去られれば、自然と一体となってしまう」
「じゃあ幽霊ってのは? 死んだ人間の魂がさまよっているんだろ」
「これは私個人の考えなのですが」
元閥はほっそりとした指を頬に当てた。
「霊というのは魂というよりも思いとか記憶とかではないかと」
「思いや記憶が悪さを?」
「そう。わたしたち自身の思いや記憶に働きかけるんですよ。ありえないのにそこにありえるように記憶させる、思わせる」
往壓はさっき走り抜けた子供を思い出した。
あれが記憶………?
「だから実際水子の霊だの祟りだのはないんです。彼らは意識が芽生える前に消えてしまいますからね」
元閥は両手を開いてみせた。そこに魂があるように。
「じゃあ遊郭に出る幽霊はやっぱり遊女たちか」
「まあ大半はね。それで説明がつかないのもままありますが」
往壓は両腕を頭の後ろに組むと布団に横になった。
「思いだの記憶だのといわれたら少しは気が楽になったよ」
往壓に掛け布団をかけながら、元閥も横になった。
「はは。でも実際のところそういうのは誰にもわかりませんよ。だが少なくとも妖夷は人の思いが形になったものだ。人の思いと、それを形作るなんらかの素体で」
「素体か。それは異界から来ているのかもしれない」
「確か妖夷は異界にとどまれない、とか」
往壓は異界でのことを四人に話していた。
「妖夷の大部分が人の思いだからか?」
「人の思いと異界は相容れないのかも。そこに棲むものは鬼なのでしょう?」
「そうだな」
往壓はニナイの微笑を思い出していた。
「美しい鬼だ」