往壓と元閥は安達家の通用門をくぐり、広い中庭に引き出された。白壁の中に松ばかりが植えてあり、二つの灯篭には灯が入れられていた。
彼らを連れてきた四人の武士たちは、いずれも暗い顔をしてうつろな目にその光を映している。
彼らが自分たちの任務を名誉にも思わず、ありがたがってもいないのは元閥にもわかった。彼らの目の中にあるのはは倦怠と不安、そして怯えだけだ。
中庭に面した部屋の障子が開かれると、四人の武士たちが膝をついた。障子の中にはこの家の主であろう、老人が座っていた。年はもう喜寿を超えているか、白く乾いた肌に点々と茶色の染みを張り付かせ、わずかな頭髪で小指の先ほどの髷を結っている。頬にはよぶんな肉はなかったが、まぶただけはあつぼったく目を半分ほど覆っていた。
「今日は二人か」
老人はしわがれた声を上げた。
「一人は女か、ほう、美しいの」
元閥はそっと往壓の方へ体を寄せた。傍目には怯えたしぐさにしか見えないだろう。ふところの中で短筒を確認する。
「だがいくら美しくてもの、年月というものは残酷なものじゃ。年をとればその艶のある肌もたるみ、背もまがり、髪も抜け落ちる。だがもっともおとろしいのは自分が自分でなくなっていくことよ」
老人は喉の奥で笑い声をたてた。
「自分がなにをしておるかわからなくなることほど、おとろしいものはない」
老人が四人の侍に軽く顎を向ける。男たちは声もなく立ち上がり、抜刀した。
「お、お待ちくだせえ!」
往壓は両手を前に投げ出し、震えた声を上げた。
「わけをお聞かせくだせえっ、お殿様はなにをしているかわからなくなるとおっしゃいました。でも、今ご自分が何をなされようとしているかはお分かりになっているはず。おいらたちもわけもわからず死ぬのはいやでござります」
往壓の必死の声に老人は顔を上げ、酷薄な視線を向けた。
「聞くのか。聞けば心安らかには死ねんぞ」
「聞かずに死ぬ方が心残りでございます、どうか」
元閥も真似て頭をさげる。美しい女の嘆願に老人の心も動かされたらしい、四人の武士に向かって手を上げた。
「よかろう、今はわしも頭がすっきりとしとる。教えてやろう」
四人は刀を引いた。どことなくほっとしたような雰囲気が男たちの間にも漂う。
「わしはな、ぼけておるのよ」
老人は他人事のように言った。
「今のように物事がよくわかっておるときもある。しかし、わからずに過ごす時間も多い。自分がその間なにをしておるのか、正気のときに考えれば考えるほどおとろしい。
わしの父も祖父も、年老いてからの振る舞いはまさしく狂人であった。痴呆であった。わしは父も祖父もおとろしく、厭わしく、忌まわしい。あんなふうにはなりとうない………!」
老人の声は震え、掠れて咳き込んだ。ひゅうひゅうという乾いた木枯らしのような音が、しわに囲まれた口から聞こえる。
「………したらばぼけに効く妙薬があるという」
なんとか咳を収めた老人は、枯れ枝のような手をあげると、コンコンと自分の頭を叩いた。
「ぼけるのは頭の中身が少しずつ減っていっているからじゃ。だから中身を補充してやればいいとな」
「頭の………中身?」
「そうじゃ、おぬしらは見たことがないかもしれんが、頭の中には白く丸い肉があっての、それがモノを考えたり、覚えたりしているのじゃ。これをな、補充する」
「補充って………いったいどうやって」
いやな予感に頬をこわばらせ、元閥が聞きたくなさそうに聞いた。老人は口をあけ、醜怪な笑顔を見せた。
「もちろん、喰うのよ」
うわあ、と元閥は口の中で呟いた。こりゃあ妖夷よりたちが悪い。
「首を斬ってな、頭の皿をごりごりと取り除き、中の白い肉を喰うのよ。喰いつければ案外とうまい。わしがこうして正気を保っていられるのも、その肉のおかげよ」
「いや、あんたもうすでに正気じゃねえよ」
往壓が吐き捨てた。
「そういう考え自体、狂っているんだと、なんでお前さん方はお諌め申し上げねえんだ」
往壓は四人の男たちに言う。男たちはいずれも暗い面持ちで地面を見つめている。主の異常な行動に、彼らの人間としての理性は確かに反発を感じている。しかし、誰一人として背けないのだ。
忠義ではない。長い間仕え続け、主の命を聞く以外できなくなってしまっている、ただの傀儡【くぐつ】だ。飼い犬根性だ。
「悪いが俺たちはそんな狂人の餌にも薬にもなるつもりはねえよ」
立ち上がった往壓の手に、いつの間にか大きな金色の斧が現れていた。突然出現した武器に、侍たちがわっと刀を向ける。
「ここまで聞けば証拠も充分………。隅田川と千住に上がった三体の首なし死体。あれはあなた方の仕業ですね」
元閥もすらりと立っていた。
「あなた方はあれを妖怪の仕業にみせるために、わざわざ首なし子の話を流したのでしょう? どんなに派手な怪談話でも、瓦版に載るには時間もかかる。それが死体が出たと同時くらいに話が載った。版元に金でも握らせて書かせたか」
元閥の手にも短筒が握られていた。それを障子の向こうの老人に向ける。狂った頭でも銃はわかったのか、老人はうろたえて立ち上がった。
「おとなしくお上の裁きを受けてください。年寄りの妄想ということでお情けをかけてくださるかもしれませんよ」
「お、おのれらっ、ゲスの分際でっ!」
「ゲスでもキチガイよりはましだ!」
往壓は斬りかかってきた侍の刀を斧で弾き飛ばした。刀は勢いよく飛び、縁側の柱に刺さった。元閥は銃をぴたりと別の武士に向ける。
「動かないでください、私たちは幕府御用預かりの蛮社改所のものです」
蛮社改所という役職は聞いたことがなかったろうが、とにかく幕府御用預かりという言葉には効き目があったらしい。侍たちは明らかに動揺した。
「なぜじゃ、なぜ、わかった」
うろたえる老人に往壓は冷たい目を向けた。
「首なし子が教えてくれたぜ。あいつを作ったお前の名前がヤツの中からでてきたんだ」
「なにを――たわけたことを」
「残念ながら蛮社改所【うち】はね、そんなたわけた話を扱う役職なんですよ」
元閥は言って銃を虚空に向けて撃った。その音に応えるように、アビが白壁の上に姿を現した。
「全員動くな! もうすでに北町奉行所の手がこちらへ向かっている」
アビはそう言うと、中庭に飛び降り、投骨を武士たちに向かって突き出した。
「これ以上の抵抗はお上の心証を悪くすると思うが」
武士たちはそれを聞くと、だらりと刀を下げた。どの顔にも濃い疲労と諦めの色が見える。そしてわずかな安堵。その中で狂った老人だけが吼えていた。
「なにが悪い!」
老人の目はいまや大きく見開かれ、張り裂けんばかりだった。
「わしは自身の老いを止めようとしておるだけじゃ! 誰だって老いは怖い、誰とても老いたくはない、そうであろうっ?」
「てめえの自分勝手な考えで三人もの人間を殺しておいて悪くねえだと? どこをどうすりゃそんな考えが出てくるんだ、それこそぼけてる証拠だろうがっ」
「殺してなにが悪い。わしはわしが大事じゃ、人が自分を守るのは当然じゃろうが!」
「糞じじいっ! てめえのために殺された人間、てめえのために作られたあやかし、そいつらにも大事な自分ってのがあるんだよ!」
往壓は叫ぶと斧を振り上げ老人に向かった。
「往壓さんだめだ! 「人」を裁くのは俺たちの役目じゃない!」
アビが叫ぶ。往壓はちっと舌打ちすると老人の目の前に突き出した斧を下ろした。立ちすくんでいた老人は往壓の前から逃げようと身を返した。その時、なにかに足をとられ、老人の体は大きく前に傾いた。
「じじいっ!」
往壓が手を差し伸べ、その体を支えようとするより早く、老人は縁側から転げ落ちた。
「――――――――――――っ!!」
その場にいた全員が見た。倒れた老人の首が縁側に刺さった刀の上に落ちたのを。
枯れた老人のものとは思えないほどの量の血しぶきが闇に吹き上がった。そして、まだ自分の身になにが起こったのかわかっていない老人の首が、胴体を離れて地面に転がった。目はなにかを探しているかのよう
に見開かれたままだ。
「………裁けなくなっちまったな」
往壓が肩をすくめ、アビを振り返って呟いた。
その時、ようやく小笠原が北町奉行所の役人を連れて安達家に到着した。