ガタリと音をたてて、重い厩の扉が開く。四角い光の中で馬が顔をあげ、こちらを見た。
「往壓さん」
馬には表情はないはずだが往壓には笑ったように見える。
「よお」
往壓はふわりと中に踏み込むと、馬の鼻面を両手で抱きかかえた。
「どうしなすった」
「べーつに」
そう言いながら自分の顔を馬の額に押し付ける。
馬はおとなしくされるままになりながら、尻尾をパサリパサリと揺らした。
やがて往壓は気がすんだのか、顔を離すと馬の前髪を撫でた。
「雲七、かわりないか?」
「見たとおりですよ」
「飼葉、食うか?」
「いただきましょう」
往壓が桶に茶枯れた葉をいれてやると馬は顔をつっこんでそれを食んだ。
往壓はその後も藁で体をふいてやったり鬣をけずってやったりと、こまごまと世話を焼いた。馬は何も言わず黙って往壓のしたいようにさせて
いる。やがてすることがなくなって、往壓は手持ちぶたさに柵によりかかった。
「で? どうしたんです」
雲七がそう問うと、往壓は自分の汚れたつま先を見つめた。
「お前は――お前は――そこに居るのが辛くはないか?」
搾り出すように言う。
「お前は俺が作った………今は人の姿でもない。それでもそこにそうやって居てくれる。お前は――」
馬は軽く鼻を鳴らした。
「辛くなんかないですよ。あたしはこの世界が好きだ。みんながみんな、ここではないどこかを求めているわけじゃ」
「お前のその言葉も………俺が望んでいる答えなんじゃないのか――」
往壓は雲七の言葉を遮った。
「いつもいつも、お前は俺の望む言葉をくれる。それは俺がそんなふうにお前を作ったからじゃ………」
「往壓さん」
今度は雲七が往壓の言葉を遮った。首を伸ばして往壓の震える肩を軽く噛む。
「確かに最初はそうだ。だがね、あんたがすべてを思い出し、あたしを漢神に戻してこの体と――ケツアルと一緒にしたとき、あたしはあんたの中の雲七から解放された。ここにいるのはあんたが作ったとはいえ、雲七………七次という男の本質ですよ」
「雲七………七次」
「まあケツアルとまじってる分、ちょっとは違っちゃいるかもしれませんけどね」
雲七は顔を上げ、往壓の頬から耳へと柔らかな鼻先を移動させた。暖かな息が往壓の伸ばしっぱなしの髪を揺らす。
「七次……七ィ」
往壓の声に応えるかのようにふっと馬の前に雲七の姿が現れた。二本の足で立つ、以前のままの雲七が。
「七次」
往壓は雲七の肩に顔を伏せた。いつもと同じ、丹後ちりめんの柔らかな羽織の感触、暖かな体、愛用の白梅香の鬢付油の匂い。
「往壓さん、あたしの方こそ聞きたい。あたしはここにいてもいいんですか? あたしがここにいることであんたが辛いのならあたしは」
「いてくれ」
往壓は雲七の体に腕を回した。
「お前がここが好きなら………いたいのなら………いてくれ」
「あたしはここに在たい」
雲七は静かに応えた。
「この町に、江戸に、あんたの――そばに」
往壓の感情の揺れが納まり、雲七が雪輪に戻った時、往壓は最近噂の「首なし子」について聞いてみた。
「ああ、知ってますよ」
雲七は長い首を振った。
「アトルが姐さんから聞いたと言ってました。怖がってましたよ」
「お前はどう思う」
「アレは最初は噂だけだったんですよ。でも最近実体をもったらしいです。豊川狐からの話ですが」
「豊川?」
往壓は眉をひそめた。
「なんだよ、お前、豊川とつきあいがあるのか?」
「この先に小さな稲荷の祠があるんですよ、気がついてなかったんですか?」
雲七は歯をむき出して笑い顔をつくる。
「稲荷があれば豊川はどこにでも移動できますからね。ちょくちょくここへも顔を出します」
「まさかお前ェ………」
「いやですねえ、何を考えてるんですか」
雲七が鼻を鳴らす。
「ただの世間話をする間柄ですよ」
「稲荷とどんな世間話をするってんだ」
「まあ町の話から往壓さんの話までいろいろと」
「あんまり余計な話をするんじゃねえよ」
「おや、妬いてるんですか」
「馬鹿」
往壓は雲七の長い鼻面を叩いた。
「で? 実体を持った首なし子が人の首をもいでるっていうのか?」
「いや、それは違うらしいんですよ」
「………首なし子が出る場所はわかるか?」
「あんまりやばいことには顔をつっこまないでくださいよ?」
それでもあまり心配していないような雲七の言葉に、往壓はただ笑い返した。