目覚めても目覚めても夜の中だ。
お多恵はため息をついた。
床にはいってから何刻たったのだろう、ちょっと眠っては目覚めて、ということをさっきから何度も繰り返している。
そのたびにあたりは暗く、夜明けが遠いことだけを知る。
(ああ、明日は嫁入りだというのに)
このままだと寝不足の顔で花嫁衣裳を着なければならない。
(そんなことになったら芳太郎さんにも申し訳ない)
それどころか祝言の途中でうっかり居眠りでもしてしまったら。
(どうしよう、なんとか眠らなきゃ)
固く目を閉じてみるがますます頭は冴え、眠気はやってこない。
(仕方がない)
お多恵は夜具の上に起き上がった。
(行儀が悪いけれど、ちょっとだけお酒をいただこう)
明日の式のために父親が酒を用意していたことは知っている。お猪口にほんの一ロ、飲むだけならわからないだろう。
お多恵は部屋を出て台所に向かった。家の中はしん、と静まり返り、なんの音もしない。歩くたびに足の下でぎし、ぎしと木のしなる音がするだけだ。
ひやり、と首筋に冷たい風が触れたような気がした。お多恵は暗い廊下を振り向いた。見知った自分の家なのに、なぜだろう、どこかよそよそしい気がした。
台所の隅に明日のための酒をいれた瓶(かめ)が置いてあった。お多恵はそっとそのふたを外した。
「………え?」
瓶の中は空っぽだった。
「この瓶じゃなかったのかしら」
あたりを見回すともうひとつ同じような瓶がある。そちらのふたを開けたお多恵は今度こそ困惑した。その瓶もまた空っぽだったのだ。
「どうしたのかしら、これじゃあ明日のお式にお酒が出せないじゃないの」
お多恵の父親も芳太郎の父親も酒のみだ。明日はおさななじみの二人の祝言ということで両親とも大いに楽しむはずなのに。
「困ったわ………明日の朝急いで買いにいかなくちゃ………」
お多恵が台所で立ち尽くしていると、ほとほとと木戸を叩く音がした。
「だ、誰? こんな夜中に」
お多恵は暗い木戸を見つめた。
「もしもし………そこにだれかいるかい?」
外から低い男の声がした。聞いたことのない声だった。
「そこに………お多恵さんという人はいるかね?」
「お多恵はあたしですが」
お多恵は思わず応えていた。男の声が非常に心地よく、優しかったせいもある。
「ああ、あんたがお多恵さんか」
男はどこかほっとしたように言った。
「お多恵さん、今困っていることはないかい?」
お多恵は男の言葉に驚いた。夜中にたずねてくることもおかしいが、今困っていることはないかという質問もかなりおかしい。
しかし、現実に今、お多恵は困っていた。
「あの………実は困っていることがございます」
「ほお、なんだい? 俺に力になれることかな」
「………実は、お酒がないのです」
「お酒かね?」
「はい。それに明日は大事な日なのにあたしは眠れないのです」
「そうかい、明日は大事な日なんだね。もしかしてお多恵さんの祝言の日じやあないのかい?」
「はい、そうです。明日はあたしが芳太郎さんにお嫁入りする大事な日なのです。なのにお酒がないし、あたしは眠れません」
男の声がしばらく途絶えた。お多恵はじっと木戸の向こうに耳を傾けた。この人は誰なのだろう?
「―――わかった。それじゃあお多恵さん、俺が酒を買ってきたら、この木戸をあけてもらえるかい?」
「え、でも………」
お多恵は迷った。こんな夜中にたずねてくる男に酒を買ってきてもらうなんて。
「あたしはあなたがどなたか存じません」
「………俺は竜導って言うんだ。お多恵さん。竜導往壓だ」
「りゅうどう、ゆきあつ、さま。お武家さまなのですか」
木戸の向こうで竜導往壓という男が笑った気配があった。
「昔はね、今はただの竜導往壓さ。お多恵さん、明日の祝言には酒が必要だね。俺が買ってきてやろう。心配しなくても大丈夫、俺はお多恵さんと芳太郎さんのことをよく知っている人間だよ」
ゆっくりと語りかける竜導往壓の声は不思議にお多恵を安心させた。このお方は信じられる。お多恵はそう思った。
「わかりました。それではりゅうどうさま、お酒をお願いできますか?」
「もちろんだ、お多恵さん。そのかわりひとつだけ約束してくれ。俺が戻ってくるまで、誰がきても決してこの木戸を開けるんじゃないよ」
「はい、わかりました。りゅうどうさま」