獣の牙がお多恵の喉にかかろうとしたその時、開いた障子から飛び込んできた男がいた。
「ぎりぎり、間に合った!」
男はそう叫ぶと左手を獣に伸ばした。手のひらから光があふれ獣を照らした。光は獣の全身を染め、その醜い姿をはっきりとさらした。
それは四足の獣ではなく、刀を持った3人の男だった。彼らの身体からなにやら黒いものが浮き上がる。
男はその黒いものを手に取ると、たちまちそれを鋭い刃に変えた。そしてその刃を獣の身体に打ち込んだ。
刃が剌さったところから、男たちの身体がぼろぼろと崩れだした。彼らは声も無く苦悶して、やがて光の中に消えていった。
「………お多恵さん」
まぶしさに顔を覆っていたお多恵は呼ぶ声におそるおそる手を離した。するとそこは血まみれの寝室ではなく、暗く静かな台所だった。
「やあ、お多恵さん」
目の前に笑っている男がいた。
「うたたねをしてたのかい、怖い夢を見てたのかい」
「夢?」
お多恵は周りを見回した。
「おとっつあんとおっかさんが………血まみれで………ころされて………」
「ああ、やっぱり悪い夢を見てたんだね」
男はお多恵の前にしゃがんで優しく言った。
「それは夢だよ、お多恵さん」
男の声は暖かかった。
「さあ、酒をもってきたよ」
「りゅうどうさま?」
「そうだよ、俺が竜導往壓だ」
声と同じように優しく明るい目をした男だった。
「間に合ってよかった。さあ、酒もきたし、明日の祝言はこれで安心だろう?」
竜導往壓は瓶のふたを外した。そこにはなみなみと酒があふれ、芳香を放っている。竜導往壓はひしゃくで酒をいっぱい汲んだ。
「さあ、お多恵さん、これを飲むといい。そうしたらぐっすり眠れる。ぐっすり眠って起きたら明日は祝言だ。あんたは恋しい男のもとに嫁いで幸せな花嫁になるだろう」
「りゅうどうさま」
お多恵は竜導往壓を見上げた。
「あれは悪い夢だったんですね。黒い獣も、血まみれのおっとつあんもおっかさんも」
「そう。そうさ、みんな悪い夢だ」
お多恵は竜導往壓の手から酒を一口飲んだ。
「ああ、おいしい………」
お多恵はにっこりした。
「これであたしもゆっくり寝ることができます」
「うん、ゆっくりおやすみ、お多恵さん」
お多恵は微笑んで目を閉じた。閉じる前にふと思った。どうしてりゅうどうさまはあんなに悲しそうに笑うのだろう。とても優しい目で、でも泣きそうな目で。
あたしは明日幸せになるのに………明日目覚めたら………この夜が明けたら………
あたしは幸せな花嫁になるのに。
■□■
往壓はゆっくりと立ち上がった。
そこは暗い台所ではなかった。開いた戸口から午後の光がはいって中を明るく照らしている。足元には割れた瓶が転がり、食器は落ち、かまどには蜘蛛の巣がかかっていた。目を臭へ向ければ、ほこりをかぶって真っ白になった廊下が続いている。
明日嫁ぐ花嫁もいなかった。
往壓は一度目を閉じて、それからゆっくりと戸から外へ出た。
「竜導」
外には小笠原と宰蔵が待っていた。
「首尾は?」
小笠原が声をかけた。
「ああ、終わったよ」
「やはり娘か?」
「そうだ」
宰蔵が痛ましげに眉を寄せた。
「お多恵さん………か?」
「ああ」
「かわいそうに。自分が殺されたこともわからないでずっとこの家にいたんだな」
「そうだな」
「祝言の前夜、瓶に潜んだ強盗にお多恵は殺されて………両親も寝ている間に刺し殺された。住むものもいなくなったこの空き家で夜な夜な怪しい音がする………すべてはその娘の怨念か」
小笠原の言葉に往壓は首を振った。
「怨念じゃねえよ。お多恵さんは酒が入っているはずだった瓶の中に人がいて………酒がなかったことだけが心配だったんだ。祝言のための酒が欲しかったんだ。そしてゆっくり休むために自分もほんの少し飲みたかったんだ」
往壓は崩れかけた空き家を振り返った。
「俺が一杯の酒をやったら………安心して眠ったよ」
恐ろしい獣は突然襲われた記憶が変化したものだろう、ああやって毎晩何度も襲われて殺されるのだ。ただひたすら明日を夢見ていたのに。
お多恵はもう酒の心配をすることも獣に襲われることもない。
幸せな明日がくるのを待って永遠の眠りについた。
往壓は徳利に残った酒を地面に注いだ。酒は芳しい匂いをゆっくりと青空の中に立ち上らせた。