桜もそろそろ散り始め、という頃。
いい天気だった。
つばめがすいすいと柳のすだれを揺らし、芍薬やつつじの甘い香がほっこりとした日差しの中に混じる。
陽気に誘われて往壓は普段足を伸ばさない大黒町までぶらついた。今までならこういうとき雲七がそばにいた。二人で他愛ない話をしながら足の向くままふらふらと一日中だって歩き回っていたのだが、独りになると存外することがない。
腹がすくまで長屋で横になっていて、そのあとは近所の食い物屋で味気ない碗をすすり、それから前島聖天へ向かい、何もなければ夕方遅く、雪輪のいる馬小屋へ行く。
一人でこんなに歩いたのは久しぶりだったかもしれない。
そんなことを考えながら歩いている横を、数人の子供たちが歓声を上げて走り抜けて行った。なにげなく目で追うと、子供らは前にある神社の境内に駆け込んでいく。気がつけばその境内には大勢の人間が出入りしていた。
「なんだ? 市でもたっているのか?」
のぞいてみると、なるほど、にぎやかな市が立っている。しかしこれは………
「おじちゃん、買ってってよ」
小さな子供が玉砂利に敷いたござの上にさまざまなガラクタを置いていた。目玉の大きな愛嬌のある顔をした男の子だ。しゃがんで見てみたが割れた茶碗やかたっぽしかない箸など、半端な日用品だ。
他の店も似たようなものを置いている。
「なんだぁ? この市は」
「おじちゃん知らないの? うちのいらないものを売ったり交換したりする降摩さまの市じゃねえか」
「ああ………」
聞いたことがあった。古物商や商いの店ではなく、一般の町人たちが物を売り買いしたり物々交換したりする降摩市。
「ここは降摩神社の系列なのか」
「ねえ、買ってってよ」
子供は暇な大人とみたのか熱心に誘う。
「っつたって、使えねえもんばっかじゃねえか」
「そんなことないよ、みんな工夫次第だよ」
「………この一本しかねえ箸はどうするんだよ」
「そりゃああれだ、耳かきにすんだよ」
「この底に穴のあいている土瓶は」
「植木に水をやるときに使いなよ」
「鏡のはいってねえ手鏡はどうすんだよ」
「ええっと、それは―――こう持つだろ? そしたら肩を叩くのに便利じゃねえか」
幼い子供が懸命に知恵を働かせるのを往壓は快いものと感じて微笑んだ。
「そっちのぼろきれを見せてくれよ」
「ぼろきれってなんだよ、おじちゃんの着物だって似たようなもんじゃないか」
「俺の一張羅になんてこと言いやがる」
往壓が布を引き寄せると、汚い袷の下から一本の帯が出てきた。
「お、こりゃあ博多帯じゃねえか」
手にとって伸ばしてみる。
「いい色の献上柄だ」
往壓はこぶしに巻きつけて引っ張ってみた。特有のきゅっとした絹鳴りがある。
「ぼろの中に宝があったって感じだな、これも売り物かい?」
「ええっと………」
子供は迷っているようだった。
「そんな帯よりさ、これ、買わねえか? おいらの父ちゃんが使ってたノミだよ」
子供はもち手が真っ黒になった古いのみを差し出した。
「馬鹿言え、そのノミ、もう先がまぁるくなってるじゃねえか。なんだ? お前のちゃんは大工か?」
「ちげえよ、おいらの父ちゃんは江戸一番の版木彫りの職人なんだ」
「へえ。浮世絵とか?」
「そうだよ、こないだ出た隼草先生のしゅんがじゅうにかげつの弥生は父ちゃんが彫ったんだ!」
「おまえー、しゅんがって意味知ってんのかよ」
往壓が思わず手のひらを返して突っ込んだとき、
「留吉、お客さんかい?」
後から声が聞こえた。振り向くと職人風の男が覗き込んでいる。
「父ちゃん」
子供はほっとしたような笑顔になった。
「すんません、ちょいと用足しに行ってまして………なんか気に入ったものありやしたか?」
父親は愛想のいい笑顔で言った。
「ああ、この博多帯、見せてもらってたんだよ」
「それは―――」
父親は一瞬眉を寄せたがすぐまた元の笑顔になった。
「そいつはいい品ですよ。俺の親父の形見でね。安くしとくよ」
「いくらだい?」
その後男と往壓の間で値段の交渉があり、最終的に二人の言い値の間で落ちた。往壓は男に金を払い、男は往壓に帯を渡した。
「そんじゃあな、坊主」
往壓は帯を懐に入れると立ち上がった。子供はなにか物言いたげな目で往壓を見上げたが、黙ってうつむいた。
往壓はその他の出物も覗いて見た。自宅で使っていたようなものから趣味で作られたものなど、骨董市とはまた違った面白さがあった。だがこの帯ほどぴんとくるものはなかった。
(この帯は雲七にやろう)
往壓はそう考えていた。
(あいつは洒落モノだからな。帯は博多、羽織は結城、小千谷ちぢみに黒須の草履ってやたら細かい)
実際今は馬の形をしている七次が帯を使うかどうかはわからないが。
(まあこいつを見せたら絶対しめてみたくなるさ)
木綿の着物をきている往壓と違って、七次の所作にはいつも紬の着物がたてるシャリシャリという音があった。抱き合った時耳元でなる音、眠ってしまったあと、七次がそっと起き上がって着替える、その時の衣擦れの音………
(いけねえいけねえ、なんだってこんなところで)
往壓は一人で照れて首を振った。振り仰ぐと青々とした欅が空に大きく枝を広げている。その欅の下に甘酒屋が店を出していた。
「おやじ、いっぱいくんな」
「へえ、………そちらのぼっちゃんにも?」
「は?」
振り向くとさっきの子供が立っていた。
「なんだ、ぼうず」
子供は往壓を見て、それから足元の地面を見た。
「おじちゃん、その帯、自分で使うの?」
小さな声で言う。往壓は親父から甘酒のはいった湯のみをもらうと欅の下に腰を下ろした。
「いや、おじちゃんの友達にやろうと思ってな」
「ふうん」
「ええっと、お前ェ、留吉って言ったな」
「うん………」
「なんだよ、お前ェ、この帯、売りたくなかったのか?」
「そうじゃねえ」
留吉は相変わらず下を見ながら言った。
「おいら、その帯好きじゃねえんだ」
「ならいいじゃねえか」
「でもその帯、じいちゃんの形見なんて嘘なんだ」
「嘘? じゃあ誰のものなんだ」
「しらね」
留吉は顔を上げた。ひどく真剣なまなざしで往壓を見る。
「そいつは前から家にあったんじゃねえんだ、こないだ父ちゃんが持ってきたんだ。おいら………」
そこまで言って留吉はぱっと身を翻した。そして背中で叫んだ。
「おいら、その帯、怖い!」