夕方になって往壓は雪輪のいる馬小屋へ出向いた。アトルはもう店に出たらしい。馬たちは何度も往壓に会っているのに、いまだに小屋へ入ると警戒するように足を鳴らす。
「雲七」
往壓は雪輪の鼻面を両手で抱いた。馬は小さく鼻を鳴らすと顔を柔らかく押し付けてきた。
「今日はお前にみやげがあるんだよ」
そう言って往壓が帯を見せると、馬は長い睫毛を瞬かせた。
「往壓さん………」
低い声がため息をつくように呟かれる。
「だからそういうのを今のあたしにもってきてどうしようってんです」
「だってよ」
「人の姿になれるのはちょんの間だし」
「だってよ」
「大体その時ゃ着物を着てないときの方が多い」
笑いを含んだ声に往壓は赤くなる。
「お前に似合うと思ったから買ってきたのに………」
唇をとがらせる往壓に馬は確かに笑った。
「あたしより自分の衣装を調えるのが先じゃありませんか? あんた、あたしがいないと着物を新調もしない」
「一人で呉服屋なんかはいれねえよ。そうだ、こんど一緒にいってくれ。この帯しめて」
「仕方ありやせんねえ」
馬の身体が金色に光り、やがて人の姿が現れた。
「ありがたくいただきますよ」
七次は博多帯を手にし、軽く顔の前にささげてみた。
「ああ、なかなかいい織りだ、色もあたし好みで」
「そうだろ?」
七次はぱらりと帯をほどいた。だが、端がするっと地面に伸びたとき、その眉がぴくと跳ね上がった。
「………………」
七次は帯をくるくると納めた。
「雲七?」
「往壓さん、こりゃいけねえ」
「え?」
「あんた、これをどこで買いなすった」
「え………、ああ、降摩神社の市だが………」
「大黒町ですね?」
「ああ」
「往壓さん」
七次は帯を往壓に渡した。
「ちょいと道行きといきましょうか」
大黒町まで行って版木彫りの職人で留吉という子供がいる男、と聞くと、すぐにわかった。もともと降摩の市はこの近所の人間しか参加していないものだ。留吉には母親は居ず、父親と二人暮らしだという。
長屋の木戸を抜け、教えてもらった家の障子を叩くと、「誰?」という子供の声がした。
「留吉かい? 俺だ。昼間帯を買ったおじちゃんだよ」
内側で息を飲むような声が聞こえた。
「お、おじちゃんなの?」
「ああ、留吉一人なのかい?」
「………とうちゃんは今急ぎの仕事で遅いんだ」
「そうかい、一人で留守番かい、えらいな」
障子に留吉の影が映った。
「や、やっぱりあの帯返しにきたの?」
「いや、お前に聞きたいことがあってな」
しばらく時間を置いたあと、内側からしんばり棒が外される音がして、戸が薄く開いた。
「聞きたいことって?」
留吉は往壓と目をあわさずうつむきながら言った。
「この帯なんだが」
往壓が懐から帯を出すと、留吉は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
「お前、そんなにこの帯が怖いのか?」
留吉は青くなっていたが帯から目を離さなかった。まるで離せば飛び掛ってくる蛇を見るような目だ。
「なあ、ずっと気になってたんだ。なんでお前ェはこの帯が怖い? お前、この帯になにが見えるんだ?」
「………それを言ってもその帯を返さない?」
「ああ、返さない。約束する」
留吉は少しばかりためらい、それから思い切ったように言った。
「父ちゃんも他の人も見えないんだ。でもおいらには見えるんだ」
「なにが?」
「その帯………」
留吉はぎゅっとこぶしをにぎった。
「はしっこに人の首がぶらさがってる」