留吉の父親・宗助は、仕事をひとつ上げたあとの、充実感の混じった疲れと、いっぱいひっかけた酔いの心地よさから、鼻歌まじりに帰途を歩んでいた。
宗助は腕のいい版木彫り職人だった。これまで長く兄弟子の杢太郎にいい仕事を横取りされたり邪魔されたりしていたが、杢太郎が死んだ今は、店でも一番むずかしい彫りをまかされ、給金も上がった。これで息子の留吉に少しはいい思いをさせてやれる。
宗助は酔いのせいで大きくなった気そのままに、夜風に小唄を一節乗せた。
「春雨に〜しっぽり濡るる鶯のぉ羽風ににおう梅が香や〜花に戯れしおらしや〜ってな、へへ」
「小鳥でさえも一筋に 寝ぐら定むる 気はひとつ、か」
宗助の節に続けて歌ったものがいた。宗助はぎょっとして立ち止まった。
「だ、誰でえ!」
「客だよ」
柳の下からうっそりと往壓が顔を出した。
「きゃ、客ぅ?」
「覚えてねえかい? 昼間、降摩の市であんたから帯を買ったんだがな」
宗助がじりっと下がった。
「な、なんだよ、返品はきかねえぞ!」
「ほう………なんで返品だってわかったんだ?」
往壓はすたふたと宗助に近づいた。宗助はあわててその分後ろへ下がる。
「てめえ、よくもこんなもんつかませてくれたなあ」
往壓は懐から帯を出した。
「こ、こんなもんてなんだ。そりゃあ正真正銘、本場筑前博多の帯だぞ」
「ああ、こりゃあちゃんとしたもんだ。だけどな、この帯についているものが問題なんだよ」
「つ、ついているもの?」
「てめェ、自分の子供がこの帯になにを見てたか気づいてねえのか。あの子はこの帯が家に来てからまともに眠ったことがねえって泣いてたぞ」
「な、なんのことだ!」
往壓は顔を虚空に向けた。何か囁くとにやりと宗助を振り返る。
「今俺の相棒がそれをてめえにも見えるようにしてくれるとよ」
そう言ってぱらりと帯をほどく。ほどける帯の流れを無意識に目で追った宗助は、先端が地面に触れるか触れないかのところで悲鳴をあげた。
「も、も、もくた………っ!」
「心当たりがあるのかい、この首に」
往壓の持った帯の先端に無念の形相ものすごく、目を剥き、青黒くふくらんだ男の首が絡みついていた。
「ひ、ひぃいいいっ!」
逃げ出そうとした宗助に往壓が帯を投げる。帯はしゅるしゅると絹鳴りを立てながら生き物のように伸びて宗助の首に絡みついた。
「ぎゃああっ!」
帯が宗助の首をしめあげる。端に絡んだ男の首が宗助の首のすぐ横まで這い登ってきた。
「たっ、たすけて! 助けてくれ!」
宗助は地面に転がった。
「許してくれ、杢太郎兄貴! 堪忍してくれ!!」
「おうおう、さすが博多帯だ。きゅっきゅ、きゅっきゅ、いい絹の音を聞かせやがる」
往壓は懐手をしながら笑った。その横で七次は眉をしかめている。
「往壓さん、いい加減にしねえとあいつ死んでしまいやすぜ」
「ふん………」
往壓は地面でのたうつ宗助の傍に寄ると、その首に絡んでいた帯をぐいと引っ張った。
「このままてめえをこの帯の好きなままにしてやってもいいんだが、俺は留吉を気に入ってるんでな。坊主の泣き顔は見たくねえ」
往壓が引くとあれほど絡んでいた帯はあっさりと宗助の首から離れた。
「てめえ、人を殺したな?」
涙を流しながら荒い息をする宗助のそばにしゃがんで往壓が言う。宗助の口から嗚咽が漏れた。
「だ、だって、杢太郎兄ィがいけないんだ………俺に仕事をさせて、それを全部自分でしたことにしやがって………隼草先生の絵は俺の一世一代の出来だったのに………杢太郎兄貴がいる限り、俺は使われるだけ使われる木偶じゃねえか………だから………っ」
「殺したのか?」
「そ、そうだ」
「この帯は?」
「兄貴のだ………この帯で首を絞めた………そのあと、兄貴の金や着物を持ち出して………物取りの仕業に見せようと」
「―――いろいろと事情もあるだろうし、殺しもした方が絶対悪いとは俺は言わねえよ」
往壓は帯をくるくるとしまった。
「だがな、罪を犯した人間はその罪を忘れちゃいけねえんだ。ずっとその罪と二人連れだ。てめえにその覚悟があるか? 杢太郎が生きていくはずだった人生をこれからしょってく覚悟が」
「………」
宗助は顔をあげ、帯を見た。今はもう宗助の目には杢太郎の顔は見えなかった。
「覚悟がねえなら番所へ行きな、そこで罪を償え。覚悟があるなら―――留吉をてめえや杢太郎のような大人にしねえって言うなら、このままうちへ帰ェんな」
往壓は立ち上がった。
「留吉はお前さんのことを、江戸一番の版木彫りの職人だって自慢してたぞ」
宗助は地面につっぷして泣き出した。
生ぬるい夜の風に宗助の歔欷【きょき】がいつまでも流れていた。