川のそばで馬はたんねんに往壓の体を舐めた。
「………もういい、雲七」
「まだ蜘蛛のべとべとが残ってますぜ」
「水で洗えば落ちる」
「落ちませんよ。蜘蛛の糸はね、水を弾きますし火にも焼けないんですよ。こうやってアタシが喰っていくしかない」
「………くすぐったいんだよ」
「ちょっとぐらい我慢しなさい。まったくあんたはあやうい人だね」
「雲七、お前なんか怒ってんのか」
「おや、往壓さん。アタシに怒られるようなことをしなすったんですかい」
「………」
「お楽しみだったんでしょう?」
「そんなんじゃねえよ」
往壓は今はもうぴくりとも動かない蜘蛛の化け物を見た。
「あいつ、全部忘れられるって言った」
「ほう」
「全部忘れてしまえばなかったことになるんだってよ」
馬は答えずに往壓の背を舐めた。
「忘れたってなかったことなんかにゃならねえし………忘れたくないんだよ」
「忘れてしまってもいいんですよ」
ブルル………と馬らしく鼻を鳴らして柔らかく顔を押し付ける。往壓は片手でその鼻面を抱いた。
「いやだよ」
馬の体から金色の光がにじみ、やがてそれは人の姿を取った。
「―――こんなところにも糸がからんでやがる」
七次は往壓の頬を両手で抱くとまぶたの上に舌を這わせた。睫毛が熱く湿り往壓は目を閉じた。
「口を開けなさいな、往壓さん」
七次が唇に触れて囁く。
「蜘蛛の糸が残ってないか………調べないと」
「残ってる………」
往壓は掠れた声で答えた。
「体の中に………残ってるよ」
ぐったりした往壓の体を背中から抱きしめ、雲七は今はもう落ち着いた空を見上げていた。月は穏やかに白い光を地上に投げかけ、すべてを夢の中へ閉じ込めている。
「七………」
「はい?」
七次の胸にもたれていた往壓は、身じろぎしてその顔を見上げた。
「寒いですか?」
「そうじゃねえよ、お前」
「はい」
「なんでここがわかったんだ?」
「ああ………」
七次は優しく微笑んだ。
「教えてくれるものがいましてね」
「教えて?」
「ええ」
七次はあごをしゃくった。往壓が目をあげると丸い月の中をひらりひらりと横切る影があった。
「………蝶?」
「あんたが助けた揚羽ですよ」
「そうか」
見ているうちに蝶の姿は月の中へ消えていった。
―――くしゅんっ。
小さくくしゃみをした往壓に、七次は着物を着せ掛けてやる。
「さあ、戻りましょう」
「ん、」
七次は再び四足の獣に戻った。往壓はその背に乗る。
「眠ってていいですからね」
「ああ―――」
馬はゆっくりとした足取りで歩き出した。往壓は馬のたてがみに顔をうずめ、月が誘う夢の中へ安らかに落ちていった。