今日の天気みたいにすっきりしねえ気分だな………
往壓はそんなふうに思って吉原への道を歩いていた。こういう時には雲七に会うに限る。
雲七か。そういやあいつも「くも」か。なんで蜘蛛はくもっていうんだろうな。
小笠原に聞けば応えてくれるかもしれない。
どうでもいいけどよ。
猪牙船【ちょきぶね】が行き来する隅田川淵を歩いている時、ふと視界の隅に何かがひっかかった。
黄色と黒のひらひら。
蝶だ。おおきな揚羽が羽根をパタパタと動かしている。動かしているのに蝶は飛んでいない。
蜘蛛の巣にひっかかっていたのだ。
川辺に立ち並ぶ桜の木の枝に大きな蜘蛛の巣がかかっている。
往壓は近寄って蜘蛛の巣と蝶を見た。細い網だというのに大きな揚羽が懸命にもがいても破れない。
しばらくその様子を見ていた往壓は、巣が張ってある枝の上に灰色の丸い蜘蛛がいることに気づいた。まるで蝶が弱る様子をじっと待っているようだった。
往壓は指を伸ばして蝶の羽をつまんだ。もう片方の手で網を切ってやる。さすがに蜘蛛の巣は人間用にはできてなかったのか、あっさりと切れた。
蝶の足にはまだ蜘蛛の糸が絡んでいた。それを注意深く取ってやってから羽根を離す。蝶はふらふらと頼りなげに飛んでいった。
「ひどいことをするねえ」
不意に女の声が背中からした。振り向くと、素人【しろうと】には見えない粋な縞模様の着物を着た女が立っている。
「蜘蛛にとってはひさびさの獲物だったかもしれないのに。蝶が蜘蛛の巣にひっかかったのだって蝶の運命。どんな小さな虫だって、醜い虫だって懸命に生きているのに、あんたは神様のつもりかい」
女は色っぽい目元で睨む。
「蜘蛛が好きなのかい、姐さん」
「蜘蛛はあたしたちのお仲間みたいなものだからね」
女は目を細めた。
「蜘蛛は巣を張って得物を待っている。あたしたちはこの体で男を待っている」
「………あんた、岡の娼妓【おんな】か」
公営の吉原以外の場所で客を取っている場所は岡場所という。何度も警動で取り締まられても、私娼窟はなくならない。
「それにね、自然の理【ことわり】に人間が手を出すのはどうかと思ってるだけさ」
「確かにな」
往壓は蜘蛛の巣に目をやった。灰色の蜘蛛は会話を聞いているかのようにじっとしている。
「ちょいと虫のいどころが悪くてな。だが蜘蛛にはいい迷惑だったようだ。まあしかしこれも天災だったとでも諦めてもらおう」
「旦那、面白いこと言うねえ。確かに天災なら仕方がない」
女はくすくす笑うとするりと往壓の胸元に滑り込んだ。
「あんたが気に入ったよ。ねえ、商売抜きでつきあわないかい」
答えない往壓の胸を、女は人差し指でくすぐった。
「あたしの壷は吉原にだって負けないよ………」
女は往壓を川に止めてある苫船【とまぶね】に誘った。外へ出て客を引く女はこのような苫船や橋の下、茶屋や船宿などへ男を連れ込む。壊れかけてるように見える苫船の障子は黒く塗りつぶされ、中へ入るとまるで夜のように暗い。
足の下に冷たい布団を感じた。女は往壓の体をその上に倒すと、自分で帯を解いた。闇の中にほのかに光るような白い肌が現れる。
「旦那、いい男だねえ」
女の指が往壓の硬い胸を撫で、引き締まった腹をたどり、下腹部に触れた。どういう技なのか、手で包まれるとたちまちそこが反応する。女は嬉し気に体を揺すり、それを自分の中へ導いた。
「………っ」
呻いたのは往壓の方だった。まるで体全体が熱い泥の中に埋まったようだった。
「旦那ァ」
女が往壓の両手を自分の胸へ押し付けた。往壓は丸く柔らかなそれを手の中で潰した。女は切なげに息を吐き、唇を寄せてきた。