婚礼の前の日、信吉は茶碗を持ってふらりと川へやってきた。その日も往壓は釣りをしていた。
「やあ、若旦那。明日は祝言だっていうのにこんなとこをうろうろしてていいのかよ」
信吉はへらりと笑った。
「いやあ、店もばたばたしてましてね。あたしがいてもみんな邪魔だ邪魔だって言うんですよ。仕方がないから外へでてきたんです」
往壓は信吉が例の茶碗を持っていることに気づいた。
「若旦那、それをどうするつもりなんだい?」
「ああ、これねえ………」
信吉はいとおしそうにその茶碗を撫でた。
「往壓さん、明日あたしが祝言をあげる相手の娘さんを知っていますか?」
「いや、確か炭問屋のお嬢さん………だということくらいしか」
「―――いい人なんですよ」
信吉は微笑んだ。
「この茶碗の話をしてみたんです。もちろんその人には見えないんですけどね。それでもあたしがこの茶碗を持っていていいだろうかと聞くと、笑ってもちろんよ、と言ってくれたんです」
「ほう………そりゃあよく出来た娘さんだ」
厭味でなく、往壓はそう思った。信吉も微笑んでうなずいた。
「あたしはこの茶碗の娘さんに惚れています。でもね、現実にあたしには守らなきゃいけないものがたくさんある。幸せにしてあげなきゃいけない人がたくさんいる………いつまでも幻の人に囚われていちゃいけないんだと気づきました」
「………若旦那」
「だから、今日はこの茶碗のお嬢さんとお別れしようと思ったんです」
信吉は川の縁にしやがみこむとその茶碗で水をすくった。そしてその中をじっと見つめた。
往壓には見えないが、信吉はきっと茶碗の娘を見つめているのだろう。気のいいのんきな若旦那の初恋、そして最後の恋………。
信吉は目を閉じるとその茶碗に口をつけた。そして往壓が止めるより早く、中の水を飲み干してしまった。
「わ、若旦那、こんな川の水を飲んじゃ………」
「往壓さん」
信吉は晴れ晴れとした顔をしていた。
「あたしは今、川の水を飲んだんじゃない、お嬢さんを飲んだんです。あたしは今までお嬢さんの顔が写った水でもお茶でも飲んだことはありませんでした。こうやって飲み干すとお嬢さんがあたしの中にはいってしまったようです………」
信吉はそっと自分の腹を撫でた。
「あたしたちはこれで二人一緒に幸せになろうと思うんです。お嬢さんが生きられるはずだった人生を」
そう言って信吉は茶碗を地面にたたきつけた。
「あっ」
茶碗は地面の石に当たり、粉々に砕けてしまった。
「もうこれでお嬢さんを見ることもないでしょう」
涙のにじんだ声で信吉は呟く。
「お前さん、それでいいのかい?」
往壓は尋ねた。
「はい、あたしは不器用ですからね。二人の女の人をいっぺんに見つめることはできないんですよ」
信吉は割れた茶碗の破片を集め、それを川の中へひとつずつ落とした。
ちゃぽん、ちゃぽんと波紋を広げながら軽い水音がする。
それは信吉の涙の音のようだった。
やがて翌日の婚礼の夜。
往壓は長屋で一人、信吉の幸せを祈って酒を飲んでいた。
だから彼は知らなかった。
祝言の三々九度の盃の最中、信吉が悲鳴を上げて立ち上がったことを。
そして腹を、胸を、喉をかきむしって、きりきりと三度回って倒れてしまったことを。
口から大量の黒髪を吐き出して、そのまま死んでしまったことを。
信吉が盃の中に何を見たのか、腹の中になにがあったのか―――気のいい友人の幸いを思い浮かべていた往壓は、知ることはなかった………。