信吉がその女の姿を見るようになったのは一ヶ月程前からだった。
信吉は母親からお茶を習っている。信吉が使う器は最近買った唐津で焼いたもので、両手に持つとほっこりと落ち着く、ぬくもりのある茶碗だった。
その茶碗を初めて使おうとした日のことだ。母親がたててくれたお茶を飲もうとしたとき、信吉はその緑色の茶の中に、自分ではない顔が映っているのを見つけた。
信吉は驚いて茶碗を取り落としてしまった。
母親に叱られながら別な茶碗でお茶を再度入れてもらったが、その中には顔は映ってはいなかった。
お茶の稽古が終わってから信吉はこっそりと唐津の茶碗に水を入れてみた。するとやはりそこに自分ではない顔が写っているのだった。
その顔は最初はゆらゆらとはっきりしなかったが、何度か茶碗に水をいれて試しているうちに、ちゃんと見えるようになった。
「それが………とてもきれいなお嬢さんで」
信吉は恥ずかしそうに往壓に言った。
白く小さな顔、伏し目がちな目、細くつんとした鼻にぽっちりとした唇。ときどきちらりと信吉の方を見る、その目の愛らしさ。
一目ぼれだった。信吉はその茶碗の中の娘に夢中になった。暇さえあれば茶碗に水をいれて覗き込んでいる。父親にも母親にも見せたが誰にも女の顔は見えなかった。両親は息子が気鬱の病にかかったかと自分の店の薬をいろいろ飲ませたが、信吉が女を見なくなるということはなかった。
とにかくずっと家にいて茶碗を覗き込んでいたらますます悪くなる、というので、信吉は強制的に家を出され、朝から夕方まで外をほっつき歩かされることになったのだと言う。
「気鬱の病というなら全ての茶碗の中にその人の姿を見なくちゃなんないじゃないですか、ねえ?」
信吉にそう言われて往壓はあいまいにうなずいた。気鬱の病については詳しくはない。小笠原あたりなら通じていそうだが。
「その唐津の茶碗になにか謂(いわ)れはないのかい?」
「あたしもそう思ってそれを買った焼き物屋さんに行ったんですが」
その茶碗は新しい茶碗で他の人手に渡ったこともない、なんの由来もないというのだ。
「ふうん、おかしなこともあるものだなあ」
往壓は首をひねった。
「一度その茶碗を俺に見せちゃくれねえか?」
「ええ、いいですよ。できるなら往壓さんにもそのひとを見てほしいんです。ほんとにすごく愛らしいお嬢さんなんですよ」
信吉は言い募った。誰も彼もが自分を気狂い扱いする中、味方になろうとした往壓のことがひどく嬉しかったに違いない。
さっそく信吉は、翌日、茶碗を持って往壓の長屋に、やってきた。
「これがその茶碗かい」
信吉は大事そうに包んだ布をほどくと、その茶碗を長屋の汚い畳の上に置いた。往壓はしげしげと眺めたが、なんのへんてつもない茶碗だ。
「持ってみていいかい?」
「ええ、どうぞ」
そっと手に持ち中を見る。
「あ、そのままでは見えません、水をいれないと」
信吉がそういった時、往壓は不意に茶碗を持っている手を誰かに握られたような気がして、思わずそれを取り落とした。
「わあっ」
信吉があわてて拾い上げる。
「気、気をつけてくださいよ! 割れたらどうするんです」
信吉は茶碗を胸に抱えた。
「すまんすまん」
言いながら往壓は自分の手を見た。そうだ、今たしかに誰かが俺の手を握った。優しい力で。
信吉は茶碗に水をいれてくれたが往壓には娘の姿は見えなかった。信吉はうっとりした顔でその中を覗き込んでいる。
「今お前さんには娘の姿が見えているんだな?」
「はい、往壓さんにお目にかけられないのは残念ですが」
「いや………」
往壓は自分で自分の手を握った。
「それがなにか不思議なものだっていうのは俺にもわかったよ」