竹林は月の光も届かず真っ暗だった。むやみと走っても仕方がないだろう、と二人はゆっくり歩いた。提灯で互いを照らすと大きな影が地面に伸びる。
「影が欲しいんだろ」
往壓は大声でよばった。
「出て来いよ」
ざわざわと竹が鳴った。はっとして見上げると重なり合った葉の中からいくつもの白い手が伸びてきた。
「うをっ?!」
手が地面を突き刺し、土をえぐる。往壓とアビは転がってその手を避けた。
「やろうっ!」
往壓が金色に輝く斧を取り出す。アビも投槍を振った。二人の得物に何本かの腕がちぎれて落ちる。
「ぐっ」
往壓のうめきが聞こえた。振り仰ぐと二本の腕に首をしめあげられ、宙に吊り上げられようとしている。アビはとっさに骨槍を投げ、その腕を断ち切った。
「往壓さんっ」
落ちてくる体を受け止める。
「アビッ」
往壓がアビの胸に手を当てた。体中の血が一気に胸の中央あたりに集まる気がする。
「おおおオオオっ!」
神の火が浮き上がる。白い炎が吹き上がった。
「くらえっ!」
アビは炎を投槍に移し、それを振るった。炎が千と分かれて無数の腕を飲み込んでいく。
「往壓さん…っ、もっと、だ!」
「待て」
自身の力に高揚し、興奮するアビを往壓は低く制した。
「?」
気配を感じて振り向くと、背後に元閥が青い顔をして立っているのが見えた。
「江戸元? 待ってろと………」
アビが近寄ろうとするより先に、往壓が飛び出した。
「どけっ! アビッ!」
金色の斧が元閥に向かって振り下ろされる。
「往壓さんっ!?」
アビが叫んだ時、ガチャンと
アビは往壓の足元に横たわっているはずの元閥を見下ろした。そこにはヒトの死体ではなく、一枚の古びた手鏡――鏡面は砕けている――が落ちているだけだった。
偽物だったのか、とアビは息をつく。
「これが―――妖夷?」
「妖夷というより妖怪、
往壓はしゃがんで手鏡を拾い上げた。
「ずいぶん古い鏡だ。造りもいい。長い間ヒトの姿を映していたんだろう。どんなものでも百年たてば魂が宿るってな」
表面にはまだ鏡が少し残っていた。それに往壓の顔が半分だけ映っている。その口が開いた。
(人になりたかっただけだ………)
アビはぎょっとして投槍を握ったが、往壓は平気な顔でその鏡を見ている。
(千人の人の姿を映して…人になれるところだった……影を…影を手に入れれば人になれたのだ)
「人になったっていいことはないさ」
なんとなく気の毒そうに往壓は応えた。
(人にはわからぬ………自分の意志で泣き笑う人には)
「お前ぇ、笑いたかったのかい?」
往壓は鏡の表面を撫でた。
「千人もの人の笑顔を映してきて、笑いたくなったのか? お前はさぞかし人をきれいに映したんだろうなあ。えらかったなあ、ご苦労だったなあ」
鏡に残った
やがて欠片はつやをなくし、みるみるくすんで往壓を映すこともなくなった。
「アビ! 竜導!」
声がして、見ると宰蔵と元閥が駆けてくるところだった。宰蔵の照らす提灯に、元閥の影がくっきりと見えている。
「影が戻りましたよ!」
往壓は手を上げて二人に応えた。
「ところでどうしてあの江戸元が鏡の作った偽者だってわかったんです?」
前島聖天の境内で、酒を飲みながらアビが聞いた。
「ああ。着物さ」
往壓はなんでもないことのように言った。
「着物?」
「着物のあわせが逆だったのさ。右前だったんだ。あいつは鏡の化け物だったからな。逆にしか映せなかったんだろう」
「なるほど」
聞いてみれば単純な答えだ。
「かわいそうだったなあ」
往壓はひどく切な気に呟いた。
「鏡の化け物が?」
「鏡も、死んだ娘たちも」
「でもあんたはあの化け物に優しかった」
往壓はちょっと笑った。
「笑いたかった、なんてかわいいじゃねえか」
「アレは最後には笑ったよ」
「ああ―――」
往壓は静かに微笑んでいる。
「鏡ってのはかわいそうだ。人は美しく映った自分はほめるが、映してやってる鏡はほめられないものな」
「誰か一人でもほめてやればあいつは妖怪にならなかったと?」
「わかんねえけどな………ほめられりゃ嬉しいだろ? 嬉しければ笑うもんだ」
なるほど、これも単純な答えだ。
「江戸元が、影がないと存在してないようだと言ったそうだ」
往壓が猪口を口に運びながら言った。
「体が光を遮らない。そこにいるのにいないもののように」
「そりゃあ妙な具合でしょうね」
「あの鏡も影がないと人になれないと言ってた。人には影なんてなくてもいいと思ったが、光だけの存在ってのがありえないってことなのかね」
光を善、影を悪と置き換えればそうだろう。善だけの人間などいやしない。その二面がヒトを人間たらしめているのだろう。
「アビは………光のほうが多そうだけどな」
往壓が微笑む。アビはそんなことはない、と首を振った。
往壓の手がアビの胸に伸びてきた。
「お前はこの中に炎を持っているからな」
神の火、と往壓は指先で文字を描いた。
「その炎はあんたが取り出すものだ」
アビは往壓の手を握った。
「あんたが望むならいくらでも炎は大きくなる」
往壓は手を引こうとしたがアビは離さなかった。
「往壓さん」
なんだ? と往壓は顔を上げた。
「その炎とは………たぶん別な意味の炎が最近俺の胸を焼く」
「別な意味?」
「それがどういう意味なのか………どんな言葉なのか俺も知りたい。あんたに取り出してはもらえないか」
「それは――」
往壓は苦笑したようだった。
「奇士の仕事じゃない」
「あんたにはその文字がわかってるんじゃないのか」
「さあ………」
往壓は空いている手をアビの胸に置き、トン、と叩いた。
「自分の中になにがあるかなんて、知らないほうがいいことだってあるぜ」
アビは手を離した。
「オトナの忠告ってやつですか?」
「年寄りの知恵だよ」
ふらりと往壓は立ち上がった。
「酔ったみたいだ。もう寝るよ」
往壓は階段を上り、だが途中でふと立ち止まった。
「いつか、な」
そしてまた背を向けた。
アビは柵にもたれると残りの酒をあおった。
「こんどあんたが漢神を使ったときに、その言葉がでてきたらどうするんですか」
それが焼くのは妖夷だろうか。それとも俺とあんただろうか。
アビは青白い炎の幻覚を見る。
往壓の言った「いつか」。それは案外と近いかもしれない。