「それだけか?」
宰蔵がつまらなさそうに呻いた。
「それだけだ」
往壓はそっけなく応える。
「なんだ、その女が狐狸妖怪、幽霊悪霊の類か凶状持ちなら話は面白くなるのに」
「面白くなんかならなくていい」
女とすれ違った往壓はそのまままた一人で暗い夜道を歩いて自宅へ戻ったのだ。もちろん、途中でなんの変事にも会わなかった。
翌日、前島聖天に出向くと境内で宰蔵がごろごろしており、なにか面白いことはないかというので昨日の話をしてみたのだが。
「俺が言いたいのは、心の持ちようで相手がどんなものにも変化してしまうということだ」
往壓の中で暗い夜道を一人で歩くのは心細かった。しかし、人が見えたとき安堵より怖れが勝った。最初は相手が辻斬りではないかと怖れ、強盗ではないかと怖れ、女だとわかると狐狸妖怪の類ではないかと怖れ、美人局(つつもたせ)ではないかと恐れた。
通り過ぎるまでさまざまな妄想が往壓を襲い、緊張させた。
そして通り過ぎたら過ぎたで、元通りの一人ぼっちになったことが前よりもいっそう心細くなった。
「人の心というのは怖いもんだ」
「教訓的なオチのついた話ほどつまらないものはないな」
宰蔵がからかう。そこへ小船を操ってアビが戻ってきた。
「往壓さん、来てたのか」
アビは大またで近寄ってくると、神殿の中へ入ってきた。
「昨日の夜遅く、大井川で女が殺されたらしい」
「え?」
「朝になって土手に転がっているのが見つかった。金を奪われ殺されたようだ」
それを聞いて宰蔵が顔を上げた。
「大井川の土手って昨日、お前が夜中に歩いた場所だろ?」
「あ、ああ」
往壓は立ち上がりかけ、また座った。
「その女、お前が見た女じゃないのか?」
「わ、わかんねえ」
「お前が会った女はホントに生きてた女なのか?」
たたみかけるように言う宰蔵に往壓は力なく首を振った。
「わからねえよ」
アビが往壓を覗き込んだ。
「ホトケを改めにいきますか?」
「………そうだな」
往壓はうなだれた。
「もしその女なら………俺と会う前に死んでいれば幽霊だろうし、俺と会ったあとに死んでいるなら夜道を送ってやらなかった俺の罪だ………」
「夜中にいきなり知らない男に送ってやると言われて了解する女はいない。お前の責任じゃない、竜導。もしかしたら全然別な女かも」
「そうかもしれねえ。だけどよ宰蔵、俺は今ほどあの女が幽霊であればいいと願わねえことはないよ。ああ、ほんっとに人の心てえのは勝手だよな」
往壓はそう言って元気なくアビと一緒に小船に乗っていった。
死んだ女が往壓の見た女じゃないといい。
宰蔵は往壓のためにそう願った。