上野・寛永寺あたりの桜は今が見所だ。
昼から夜までお祭り好きな江戸っ子は、酒だ肴だ踊りだ唄だと楽しんでいる。桜が散るまでのわずかな時間を大急ぎで過ごすために。
夕刻、往壓もふらりと桜の山に寄ってみた。もちろん一人ではない。
「どうだい、いっぱい」
にぎやかな花見客から少し離れた木の下に座り、用意してきた酒瓶を差し出した。
「いいですね」
雲七が微笑んで懐から猪口を取り出す。往壓も持ってきていた猪口を出して、酒を注いだ。
傍から見れば一人で寂しく酒を飲んでいるように見えるだろう。だが本当は誰よりも楽しく気の置けない男と一緒なのだ。
今の雲七の存在に気づいてから往壓はひどく自由になった気がした。
雲七が他人には見えないというのは往壓にとってはどうでもいい。往壓が胸のうちで問いかける言葉に雲七は答え、往壓がこぼす笑みに笑みを返す。それは雲七が見えても見えなくてもかわりはないことではないか。
「お」
雲七が細い目をいっそう細めた。桜の花びらが一枚、往壓の杯に舞い降りたのだ。
「風流ですね」
「ああ」
往壓は杯を煽った。花びらが一緒にのどを滑り降りる。
雲七は向こうで騒いでいる花見客に目をやった。
「こんどはあやしの皆さんと一緒にいらっしゃれば?」
「そうだな、あいつらと飲むのも楽しそうだ」
「アトルも連れてやっておくんなさい」
「雪輪も一緒だぜ」
往壓が微笑むと雲七は肩をすくめた。
「小笠原さんがいやがるんじゃないですか?」
「花見なんだから少しは融通を利かせてくれるだろうよ」
ひらり、ひらり、と花びらが舞い落ちる。往壓の髪に、肌に、着物に。
「雲七?」
すうっと雲七が顔を近づけてきた。往壓の唇に軽く唇を触れ合わせる。
「おい………こんなところで」
「どうせ誰にもわかりません」
雲七はくすくす笑った。
「あっしもこれでけっこう浮かれているようですぜ」
「他人事みたいに言うな」
「往壓さんはそのままでいてくださいね………」
言いながら口づけを深くする。往壓は軽く唇を開き桜に背をもたせた。雲七の舌が動くたびに手にした杯の中の酒が小さな波紋を作る。
「んっ………」
舌が奥まで届いた時、酒が指を濡らした。
「………も、しち…っ」
さすがに肩を押しやると、雲七はいたずら坊主のような顔で笑っている。
「おまえ、なあ」
「ちょいとぞくぞくしたでしょう?」
花見客の方をちらりと見て、往壓は唇をとがらせた。
「せっかく花を見に来たのに」
「見ればいいじゃありませんか」
「花より団子だ」
往壓は雲七の着物の上から股間をぎゅっと握ってやった。
「痛い痛い、かんべんしてくださいよ、往壓さん」
「うまい団子を食わせてくれたらな」
往壓は立ち上がった。雲七もゆらりと立つ。
すでにあたりは黄昏て、西日が桜を紅く染めていた。ずらりと並んだ桜の奥の方まで紅い光が差し込んで―――
「あっ」
突然目の前の桜が燃え上がった。
紅い夕日のそれより赤く、朱く、紅く、紅蓮く、あかく。
花びらはすべて火の粉と化し、枝は悲鳴をあげる人のように振り上げられ、その幹はねじきれた。
「うわ、あっ」
どーんとすさまじい音がして地面がめくれあがる。黒い服を着た男たちの姿が影のようにゆらぎ走り回っていた。時折キラキラと光るのは刀の動きなのか。
往壓は両手で顔を被った。熱風が目を焼き、髪が燃える。全身が火柱となった。
「ああああっ」
吹き上げられた往壓は空の高みから上野の山をみた。燃え上がる山の中でたくさんの侍が死んでいた。侍たちのそばにはぼろぼになった白い布が翻っている。白地に紅い丸を描きあの文字は……
「往壓さん」
耳元で声が弾けた。往壓はひゅっとのどで息を吸い、それから大きく吐いた。
振り向くと心配そうな顔をした雲七がいた。
「どうなすった」
往壓は雲七の顔をまじまじ見つめ、囁いた。
「ああ………おめえ、今の―――見なかったのか」
「ええ、なにも」
あたりはすっかり闇に沈んでいる。誰かのもってきていたぼんぼりが桜をうっすらと照らしていた。
「この山、燃えるんだ」
「ええ?」
「それとも昔、なのかな」
「何を見たんです?」
往壓は唇を舐め、今見た光景をなぞった。
「たくさんの侍が死んでた。地面に大きな穴がいくつもあいて桜が燃え上がって………ああ、あの旗にはなんて書いてあったのかな。彰………?」
「そうですか」
雲七は優しく往壓の肩を抱いた。震える身体を二三度さすってやる。
「大丈夫ですよ、往壓さんには遠い未来のことだ」
「ああ」
往壓は雲七の肩に顔を伏せた。
「人が死んでもここの桜は残ります。それこそ遠い遠い未来までね」
ちらちらと桜が降る。地面に舞い落ち踏みしだかれる。それでもまた来年花は咲き、そしてずっと先の時間まで。
「帰りましょう」
桜降る夜の中を往壓は雲七と歩いた。桜の見せた一瞬の夢は往壓の胸の中にしまわれた。
二四年後、上野の山は戦場となる。
彰義隊と名乗る若い男たちのなきがらが積み上げられる。
往壓がそれを目撃したのかどうなのか。
桜は語らない。ただ咲いて散ってゆくだけだ。