浅草の通りを冷やかして歩いていたら白梅香の鬢付油を置いている店があった。
ちょっと手にとって香りを嗅ぐと体の奥が疼いた。
「兄さん、上物だよ、買っときな。あんたのそのぼざぼさ頭も見違えるほど格好よくなるさ」
店の親爺がにやにやしながら言う。往壓は自分の髪に手をやった。生来癖の強い髪で子供の時分も髷を結うのが大変だった。
「いくらだい?」
買ったのはもちろん自分に使うわけではない。
「往壓さん………」
馬は往壓の差し出したものに軽いため息で返した。
「そんなものをもらったって今のアタシにどうしろっていうんです」
「いや、だって、お前、ヒトの姿だってとるじゃねえか」
「ヒトの姿って言ったってありゃあ………」
言いかけて馬は黙った。
往壓は手の中の小さな壷を所在なげにいじくりまわしている。
ふっと馬の姿がぶれた。一瞬、金色の光をにじませて、そこに人の姿が現れる。
「雲七」
往壓が嬉しげに名を呼んだ。子供のようなその笑みに七次は苦笑する。
「そうですね、そろそろ欲しいと思ってたところだったんですよ」
七次はほつれた髪をなで上げた。左の額から一筋髪が垂れている。
「月代もそらないといけないし」
ざらりと頭のてっぺんを撫でてみせる。
「お前は洒落ものだものな」
「往壓さんが横着なんですよ。あんただって月代をそりあげてきちっと整えればいい男なのに」
「いい男は間に合っているよ」
往壓は笑い、七次を外へ誘った。
「俺が剃ってやろうか?」
「ああ、いいですね。久々に竜導床屋をやってもらいましょうか」
「待ってろ、アトルに剃刀を借りてくる」
往壓が駆け出していく。その後姿を見送って七次はやれやれとため息をついた。
「あんたの生んだこの姿。自然に髪が伸びたりするって思ってるんでしょうかねえ」
往壓は剃刀だけではなく、桶や手ぬぐい、櫛まで借り出してきた。馬小屋のそばの川辺にそれらを並べ、にわか床屋を始める。
七次の元結を解き、月代にちょろちょろと生えた短い毛を剃っていく。それから伸ばした髪を梳り、鬢付け油を使ってきちんと結い上げた。
「相変わらずおみごと」
頭に手をやって七次はにこりと笑う。
「きつくねえか」
「きついくらいがちょうどいい」
往壓は七次の頭に顔を近づけるとくんくんと鼻をひくつかせた。
「ああ、いいねえ。いい香りだ」
「新しい油ですからね。そうだ、あんたの頭も結ってあげやしょう」
「俺はいいよ」
「よかありません。ずいぶんだらしなくなってるじゃないですか」
七次は往壓を押さえつけるとさっさと剃刀で元結を切ってしまった。ばさりと肩の上で髪がはねる。
「うわ、あんたいつから髪を洗ってないんです?」
「別に死にゃあしねえよ」
「しらみたかりだ。櫛に絡み付いてきやがる」
七次は櫛で髪をとかすと歯に挟まったしらみや垢を川の水でゆすいだ。
「ふのりがあるといいんですがね。この髪、根元から洗っちまいたい」
「やだ」
「子供ですか、あんた」
時間をかけてなんとか表面の汚れを落とすと、さすがのはねっかえりの髪も少し大人しくなった。
「これだけたっぷり黒々した髪、ちゃんとしとけばいいものを」
「めんどくせえな。いっそ坊主にすっか」
「駄目ですよ」
七次は往壓の髪に指を絡めて微笑んだ。
「布団の上であんたの髪がほどけていくのを見るのがすきなんですから」
「雲……っ、七…っ、おまっ、なにを………っ!」
真っ赤になる往壓を無視して手早く髷を作っていく。きゅうっと元結を引っ張られ、往壓は「いたいいたい」とわめいた。
「さてできた」
七次はぱんぱんと手を叩くと往壓の頭をぐいっと川面に押し出した。
「ほら、いい男だ」
川の流れの中に髪を結いなおした自分が映っている。だが七次の姿はなかった。
「七………」
振り返るとちゃんと後ろで桶や櫛を片している姿がある。
「そろそろアトルが戻ってくるから帰りますよ」
七次は鬢付油の壷を往壓に放った。
「それはあんたが持っててください」
「あ、ああ」
往壓は手の中で壷をころころ転がした。
「往壓さん」
「あ?」
「油、ありがとうございます。久々にすっきりしましたよ」
七次はにっこりした。その笑みを残して姿が消える。]
「………ちぇ」
往壓は壷を放り投げ、また手の中で受けた。
「ほどけていくのが………なんて、ここしばらくご無沙汰なくせによ」
頭を振ると白梅香がぷんと香る。
「雲七の匂いだ」
往壓は笑みをこぼし、剃刀をアトルに返すため吉原へ向かった。