アビの身体の中にまだ熱が燠火【おきび】のように残っている。理由はわかっていた。あの狐との戦いの時、竜導往壓【ゆきあつ】によって身体の中からとりだされた炎のせいだ。
胸の中央から燃え上がった炎は熱くはなかった。だが手にした投骨に移し、その炎で獣を蹴散らした時、高揚感に包まれた。すべての獣を相手にしても勝てると思えるほど高ぶった。その炎がまだ内側でチロチロと身を焼いている気がする。
「………ッツ」
アビは自分の胸を拳で突いた。
本当はもっと戦いたかった。あの場所を一面炎で埋めつくすくらい暴れたかった。
「アビ」の名は「火山」。地下で真っ赤な石がどろどろと溶けながら炎の川となっている………。
「アビ」
とんとん、と軽い足音がして、竜導往壓が神殿の階段を降りてきた。
「往壓さん」
最初は往壓どの、と呼んでいたのだが、そんな上等なもんじゃないぜ、と笑われたので今ではそう呼んでいる。
「どした? 眠れねえのか?」
この人はどうしてそういうことに気づくのだろうな、とアビは年上の男の顔を見た。
「………俺の漢神【あやがみ】のことを考えていた」
アビの答えに往壓は少し困ったような顔をした。
「あ、いや、そうじゃない。あなたに漢神を引き出されたのがいやだったわけじゃない」
アビは急いで言った。往壓が異界の力を使うことにためらいがあるのを知っているからだ。
「最初は驚いたがあの炎を使うことで俺は強くなれた。感謝さえしている」
「………あまり頼らない方がいい。まともな力じゃあない」
「でも使える。俺は山【サン】の民だ。俺たちは使えるものはなんだって使うのさ」
往壓はアビのそばの欄干に寄り掛かると、真っ暗な水に目をやった。
「あのとき………あなたに漢神をだされた時、不思議な感覚があった」
「不思議な?」
往壓はアビに視線を戻す。
「ああ。確かに俺の中から引きずり出される何かがあった。だがその一方で、あなたが俺の中に入り込んできたような………」
「へえ」
「あなたはこれまで何体かの妖夷【ようい】の漢神をひっぱりだしてきた。そいつらもみんなそんな感覚をもったのだろうか?」
「さあな。少なくとも俺ァ自分から漢神を引きずり出す時の感覚しかわかんねえからな」
軽い調子で往壓は笑う。
「また機会があればアレを頼む」
「あんまりない方がいいがなあ………」
往壓はぽりぽりと鼻の頭をかき、それから不意に笑いだした。
「なんだ?」
「いや、あんときのお前と江戸元………狐に化かされて泥水と泥団子を喰ってたザマ。御伽話そのまんまだったなあと思って」
アビの顔がさっと赤くなる。
「あ、あれは……っ、江戸元が悪い。女に囲まれてすぐに鼻の下を伸ばして―――!」
「だがお前さんも狐の色香に迷ったんだろ。きれいどころにしなだれかかられてうっかり我を忘れてしまった」
「それは―――」
「山の民は動物相手に野山を駆け狩りをする一族じゃないのかい? その獣相手に術をかけられて」
「もう言うなっ」
アビは往壓の着物の襟首を掴んだ。すぐ目の前で往壓の目が笑っている。
「う………」
その愉しそうな視線に怒気をそがれて手を離した。欄干にもたれてがっくりと首をたれる。
「悪い悪い。もう言わないよ」
大げさな落ち込みの素振りに往壓があわてたように覗き込んだ。
「往壓さん」
「あ?」
「今も………俺の中から漢神をとりだせるかい?」
「………」
往壓はちょっと考えているようだったがすぐに首を振った。
「今はそんな場面じゃない。アレは俺の気のもちようって部分もあるんだ。切羽詰まったときとか、身の危険が迫ったときとか」
「そうか」
アビはくるりと身体を反転させると往壓をその腕の中に抱いた。
「え? ちょ、アビ」
「身の危険、感じないか?」
「はあ?」
「山の民は長い間山の中にこもっちまう。だから野郎同士で処理しちまうこともあるんだ」
「おいおい」
「このままあなたを犯っちまうことだってできるんだぜ?」
凄味を帯びたアビの笑みに、往壓は軽くため息をついた。
「よせよ。掘ったこたァあっても掘られたことはないんだ」
「えっ?!」
往壓の台詞に驚いて一瞬力が緩む。するりと往壓がアビの腕から逃れた。
「剣呑、剣呑」
笑いながらそう言って階段を軽く駆け上る。
「嘘だよ、本気にしたか?」
「往壓さん」
「お前さんもその気もないのに下手な嘘はやめときな」
往壓はそういうと神殿の中へ戻ってしまった。
「くそっ! じじぃ…っ」
からかったつもりが軽くあしらわれてしまった。亀の甲よりなんとやら、か。
アビは毒づいたが、ふと自分の胸に目を落とし、はっとした。かすかに胸の中央が光っている。
「漢神………?」
その光はじきに薄れて消えた。
「………なんだ、身の危険、感じたんじゃないか」
ふ、とアビの口元が緩む。
往壓がまだ胸の中にいる気がする。抱きしめた体温が残っている。
「その気もないのに、か。あったら………どうしただろうな、あの人」
暗い川の流れに目をやる。動かない水は往壓の瞳のように静かだった。
明日からまた妖夷と戦う日々だろう。そうしたら往壓が自分の中から漢神を引き出してくれる。
往壓が力を使うたび、自分の中に往壓の一部が残る。そして胸の中が往壓でいっぱいになったとき………
「その気になるかもしれないぜ、往壓さん」
アビはつぶやき、水面に笑いをひとつ、落した。