「こんにちは、往壓さん」
往壓が川のほとりで釣りをしていると、ふらふらと近寄ってきたものがいた。
「おや、こりゃあ、坂井屋さんの若旦那」
往壓は顔をあげてにっこりした。この川でちょくちょく会う、顔なじみの若者だ。
坂井屋はそれほど大きくはないが、老舗の薬屋で、深川の住人なら誰でも一度はお世話になっている。
父親の久兵衛はやり手の働き者だが、一人息子の信吉はおっとりとしたのんき者だった。釣りが好きでこの川で一緒に釣っているうちに親しくなった。
きちんとした家の跡取りが、自分のようなごろつきとつきあうのもどうかと思ったが、ふわふわとした穏やかな気質の青年を、往壓は気に入っていた。
「つれますかあ?」
「いや、さっぱりだね………若旦那、ちょいと痩せたんじゃねえのか?」
「あ、わかりますか?」
もともと細面だった顔の線がさらに細くなっている。それでも信吉は嬉しそうだった。
「じつはね、あたしが痩せているのには訳がある」
「へえ?」
「これは往壓さんだから話すんですが」
「ああ」
「じつはあたしは今恋わずらい中なんです」
 そう言って若旦那はうふふ、と笑った。往壓もなんだかくすぐったくなって笑ってしまった。
「へえ、そりゃあいいや。しかしわずらい、ってことはまだ叶ってないのかい?」
「そうなんです」
「相手はどこのお嬢さんなんだよ」
「………」
 信吉はふと笑みを消すと川面に目を向けた。
「往壓さんは人の言うことをバカにされないお方だから話すんですが………」
その言い方に、往壓はいやな予感がした。
まさかこの世間知らずの箱入息子、悪い女にひっかかっているんじゃないだろうな。
「その人は………どこのどなたかわからないんです」
「へえ、どこか通りすがりにでも見初めたのかよ?」
「いいえ、通りすがりどころか毎日でも会えるんですが」
「じゃあ、名前と住まいを聞いたらいいじゃないか、あ、ひょっとして恥ずかしいのかい?」
「そうじゃないんです」
信吉は往壓の側にしゃがみこんだ。
「絶対、絶対、嘘だって言わないでくださいよ、笑わないでくださいよ」
真剣な目で見つめてくる。いつも眠そうな半眼の目がしっかりと往壓をとらえていた。往壓はうなずいて約束した。
「言わねえよ、人の恋路をどうして笑う」
それでも信吉はしばらくもじもじしていた。水面と往壓に何度も目をやる。
「―――じつはね、その人は茶碗の中に住んでいるんです」
「う、」
 言いかけて往駆は慌てて口を塞いだ。信吉がじっとりとした目で睨んできた。
「今、嘘って言いかけたでしょ」
「い、言わねえ、言わねえよ」
「いいんです、どうせ誰にも信じてもらえないんですから」
 がっかりと肩を落とす様子に往壓は相手の背中を叩いた。
「なあ、若旦那」
「はい」
「実は俺は子供の頃、神隠しにあったことがあるんだ」
 信吉はびっくりした顔で「うそっ」と言った。そして慌てて口を塞ぐ。往壓は笑った。
「いいんだよ、俺も誰にも信じてもらえなかった。俺が一瞬だと思っている間に、外の世界では一年という時がたっていた。一年ぶりに戻ってきた俺がいくら屏風の中の世界に行っていたと言っても、母親も父親も信じちゃくれなかったよ」
「ほんとなんですか………」
 信吉は恐る恐る言った。往壓はうなずいて、
「ああ、だからどんな荒唐無稽な話でも、この世には絶対ないとは言えねえってことは知っている。若旦那、もしよかったら俺に話を聞かせちゃくれねえか?」




信吉がその女の姿を見るようになったのは一ヶ月程前からだった。
信吉は母親からお茶を習っている。信吉が使う器は最近買った唐津で焼いたもので、両手に持つとほっこりと落ち着く、ぬくもりのある茶碗だった。
その茶碗を初めて使おうとした日のことだ。母親がたててくれたお茶を飲もうとしたとき、信吉はその緑色の茶の中に、自分ではない顔が映っているのを見つけた。
信吉は驚いて茶碗を取り落としてしまった。
母親に叱られながら別な茶碗でお茶を再度入れてもらったが、その中には顔は映ってはいなかった。
お茶の稽古が終わってから信吉はこっそりと唐津の茶碗に水を入れてみた。するとやはりそこに自分ではない顔が写っているのだった。
その顔は最初はゆらゆらとはっきりしなかったが、何度か茶碗に水をいれて試しているうちに、ちゃんと見えるようになった。
「それが………とてもきれいなお嬢さんで」
信吉は恥ずかしそうに往壓に言った。
白く小さな顔、伏し目がちな目、細くつんとした鼻にぽっちりとした唇。ときどきちらりと信吉の方を見る、その目の愛らしさ。
一目ぼれだった。信吉はその茶碗の中の娘に夢中になった。暇さえあれば茶碗に水をいれて覗き込んでいる。父親にも母親にも見せたが誰にも女の顔は見えなかった。両親は息子が気鬱の病にかかったかと自分の店の薬をいろいろ飲ませたが、信吉が女を見なくなるということはなかった。
とにかくずっと家にいて茶碗を覗き込んでいたらますます悪くなる、というので、信吉は強制的に家を出され、朝から夕方まで外をほっつき歩かされることになったのだと言う。


「気鬱の病というなら全ての茶碗の中にその人の姿を見なくちゃなんないじゃないですか、ねえ?」
信吉にそう言われて往壓はあいまいにうなずいた。気鬱の病については詳しくはない。小笠原あたりなら通じていそうだが。
「その唐津の茶碗になにか謂(いわ)れはないのかい?」
「あたしもそう思ってそれを買った焼き物屋さんに行ったんですが」
 その茶碗は新しい茶碗で他の人手に渡ったこともない、なんの由来もないというのだ。
「ふうん、おかしなこともあるものだなあ」
 往壓は首をひねった。
「一度その茶碗を俺に見せちゃくれねえか?」
「ええ、いいですよ。できるなら往壓さんにもそのひとを見てほしいんです。ほんとにすごく愛らしいお嬢さんなんですよ」
 信吉は言い募った。誰も彼もが自分を気狂い扱いする中、味方になろうとした往壓のことがひどく嬉しかったに違いない。

 さっそく信吉は、翌日、茶碗を持って往壓の長屋に、やってきた。
「これがその茶碗かい」
 信吉は大事そうに包んだ布をほどくと、その茶碗を長屋の汚い畳の上に置いた。往壓はしげしげと眺めたが、なんのへんてつもない茶碗だ。
「持ってみていいかい?」
「ええ、どうぞ」
 そっと手に持ち中を見る。
「あ、そのままでは見えません、水をいれないと」
 信吉がそういった時、往壓は不意に茶碗を持っている手を誰かに握られたような気がして、思わずそれを取り落とした。
「わあっ」
信吉があわてて拾い上げる。
「気、気をつけてくださいよ! 割れたらどうするんです」
信吉は茶碗を胸に抱えた。
「すまんすまん」
 言いながら往壓は自分の手を見た。そうだ、今たしかに誰かが俺の手を握った。優しい力で。
 信吉は茶碗に水をいれてくれたが往壓には娘の姿は見えなかった。信吉はうっとりした顔でその中を覗き込んでいる。
「今お前さんには娘の姿が見えているんだな?」
「はい、往壓さんにお目にかけられないのは残念ですが」
「いや………」
 往壓は自分で自分の手を握った。
「それがなにか不思議なものだっていうのは俺にもわかったよ」



往壓は坂井屋がその茶碗を買ったという焼き物屋へ行った。すでに信吉が行ってはいたが、もしかして購入者には言えぬこともないとも限らない。


「謂れって言ったってね、前にも坂井屋の若旦那に聞かれましたが、これは新しいものでどんな謂れもいわくもありやしませんよ」
 店の主人は狐に似た細い目を尖らせて言った。
「それじゃあ、あの焼き物を焼いた窯元はどうだい?」
 往壓は店の棚に並んでいる茶碗を指で撫でながら言った。
「若旦那が言うにはこの茶碗はけっこう安く買ったと言ってたぞ。俺は素人だから茶碗の良し悪しはわからねえが、けっこう上物なんだろ? 窯元から安く買い叩いて恨みを買ってるなんてことはねえのかよ」
「そ、そ、そんなことあるわけないでしょう!」
 店の主人は往壓の指が触れた茶碗をさっと取り上げ、ごしごしと布で擦った。狐目がきょときょとと天井や床を見回している。
「………窯元、になんかあるのか」
 低く耳元で囁いてやると、「ひえ」と叫んで茶碗を取り落とした。あわや床に落ちる前に、往壓がそれをすくいあげた。
「なに、ただとは言わねえよ」
往壓は財布から金を出した。汚い風体からは想像もつかないような金額に、店の主人は渋々といった様子で話し出した。
「実はあの茶碗を焼いた窯元はもうないのですよ」
「ない? なぜだ」
「窯元が火を出してしまいましてね、中にいた焼き物師は家族も含めてみんな焼け死んだんです。でもそんな話をすると縁起が悪いでしょう?」
 主人は袖口で茶碗を擦りながらため息をついた。
「あの茶碗はその焼け跡から掘り出されたんですよ。何点か無事なものがあって、その中のひとつです」
「じゃああの茶碗は焼き物師の家族と一緒に焼かれたってことだな?」
 主人はぎょっとした顔をした。
「そ、そうはいってませんよ。窯と家族が寝起きしていた場所は別ですし。人聞きの悪いこと、言わないでくださいよ」
往壓は別な茶碗をとりあげ爪の先で弾いた。チーンと澄んだ音がする。これは磁器の特徴だ。ガラスの材料で使われる長石、けい石を多く含有する石の粉を使ってあるせいでこんな金属音がする。
「もう一つ聞きたい。その焼け死んだ焼き物師の家族に娘はいたか?」
「む、娘さんですか?」
「ああ、年のころなら十五、六の娘盛りの」
 往壓の言葉に店の主人は首をひねった。
「さあ、遠く備前鍋島様の唐津の里のお話ですから詳しいことは。ただ焼け死んだのは親子三人と聞きましたねえ」
「親子、か………娘とも息子ともわからねえんだな」


 往壓はその話を信吉に伝えた。信吉は腑に落ちた、という顔で茶碗を見つめた。
「では、あのお嬢さんはその焼き物師の方の娘さんなんですね」
「確証はねえ。だがその茶碗にまつわる話はそれだけだ」
「きっと娘さんなんですよ………それではこの世の方ではないんですねえ」
信吉は悲しそうに言った。
 まあ茶碗の娘に恋をしても仕方がない、まして相手が死者ならいつかは信吉も諦めるだろう。往壓はそう思った。
だがそれは往壓が甘かった。信吉はその後も茶碗の中を覗くことをやめなかった。たとえ死者とはいえ、生きて存在していたことがわかったのだ。自分の妄想ではない。
話すことも手を握ることもできなくても、会うことだけはできる。信吉の中で茶碗の娘の存在はますます大きくなっていった。

そんな折、坂井屋は薬の仕入れで大きな失敗をして、借金を背負うことになってしまった。このままでは早晩店は潰れてしまう。
 しかし、捨てる神あれば拾う神あり、別な業種の大きなお店から、ぜひ信吉さんに娘をもらってほしいと言って来たのだ。その大店の娘と結婚すれば、坂井屋は資金を融資され立ち直ることができる。
 能天気だが孝行息子の信吉が仕事一途の父親を見捨てることはなかった。信吉は大店の娘と婚姻することとなった。



婚礼の前の日、信吉は茶碗を持ってふらりと川へやってきた。その日も往壓は釣りをしていた。
「やあ、若旦那。明日は祝言だっていうのにこんなとこをうろうろしてていいのかよ」
 信吉はへらりと笑った。
「いやあ、店もばたばたしてましてね。あたしがいてもみんな邪魔だ邪魔だって言うんですよ。仕方がないから外へでてきたんです」
 往壓は信吉が例の茶碗を持っていることに気づいた。
「若旦那、それをどうするつもりなんだい?」
「ああ、これねえ………」
 信吉はいとおしそうにその茶碗を撫でた。
「往壓さん、明日あたしが祝言をあげる相手の娘さんを知っていますか?」
「いや、確か炭問屋のお嬢さん………だということくらいしか」
「―――いい人なんですよ」
 信吉は微笑んだ。
「この茶碗の話をしてみたんです。もちろんその人には見えないんですけどね。それでもあたしがこの茶碗を持っていていいだろうかと聞くと、笑ってもちろんよ、と言ってくれたんです」
「ほう………そりゃあよく出来た娘さんだ」
 厭味でなく、往壓はそう思った。信吉も微笑んでうなずいた。
「あたしはこの茶碗の娘さんに惚れています。でもね、現実にあたしには守らなきゃいけないものがたくさんある。幸せにしてあげなきゃいけない人がたくさんいる………いつまでも幻の人に囚われていちゃいけないんだと気づきました」
「………若旦那」
「だから、今日はこの茶碗のお嬢さんとお別れしようと思ったんです」
 信吉は川の縁にしやがみこむとその茶碗で水をすくった。そしてその中をじっと見つめた。
 往壓には見えないが、信吉はきっと茶碗の娘を見つめているのだろう。気のいいのんきな若旦那の初恋、そして最後の恋………。
 信吉は目を閉じるとその茶碗に口をつけた。そして往壓が止めるより早く、中の水を飲み干してしまった。
「わ、若旦那、こんな川の水を飲んじゃ………」
「往壓さん」
 信吉は晴れ晴れとした顔をしていた。
「あたしは今、川の水を飲んだんじゃない、お嬢さんを飲んだんです。あたしは今までお嬢さんの顔が写った水でもお茶でも飲んだことはありませんでした。こうやって飲み干すとお嬢さんがあたしの中にはいってしまったようです………」
 信吉はそっと自分の腹を撫でた。
「あたしたちはこれで二人一緒に幸せになろうと思うんです。お嬢さんが生きられるはずだった人生を」
 そう言って信吉は茶碗を地面にたたきつけた。
「あっ」
 茶碗は地面の石に当たり、粉々に砕けてしまった。
「もうこれでお嬢さんを見ることもないでしょう」
涙のにじんだ声で信吉は呟く。
「お前さん、それでいいのかい?」
 往壓は尋ねた。
「はい、あたしは不器用ですからね。二人の女の人をいっぺんに見つめることはできないんですよ」
 信吉は割れた茶碗の破片を集め、それを川の中へひとつずつ落とした。
 ちゃぽん、ちゃぽんと波紋を広げながら軽い水音がする。
 それは信吉の涙の音のようだった。



 やがて翌日の婚礼の夜。
 往壓は長屋で一人、信吉の幸せを祈って酒を飲んでいた。

 だから彼は知らなかった。

 祝言の三々九度の盃の最中、信吉が悲鳴を上げて立ち上がったことを。
 そして腹を、胸を、喉をかきむしって、きりきりと三度回って倒れてしまったことを。
口から大量の黒髪を吐き出して、そのまま死んでしまったことを。

信吉が盃の中に何を見たのか、腹の中になにがあったのか―――気のいい友人の幸いを思い浮かべていた往壓は、知ることはなかった………。