部屋に幽霊が出る」
 元閥がなじみの料亭の女将にそう相談されたらしい。
「坊主を呼んでお経をあげてもらったが、そのあともでるようだ」
 噂が広がって客足が途絶えるまえにどうにかしてほしい、と泣きつかれた。
「で、その幽霊ってのは?」
 話を持ち込まれた往壓が手枕しながら元閥を見上げた。薄暗い往壓の部屋の中で元閥の白い肌がほんのりと光るようだ。
「その料亭ってのは料理もいいんですが、まあ、その、食事のあとに女性とお楽しみをさせていただけるところでね」
 それで奇士には持ち込まなかったんだな、と往壓は合点した。宰蔵あたりに聞かせたら、あのただでさえ丸い顔がますます膨れ上がってしまうことだろう。
「で、ことがおわって寝ますよね。明け方であってもちょいと一眠り。ところが………たいていは男の方なんですが、寝ているうちに胸が苦しくなってくる。で、目をあけると畳の上に女の顔が半分だけ覗いていた………これが最初の話なんです」
 往壓はぽりぽりとはだけた胸を掻いた。
「どのくらいの男が見てるんだい?」
「泊まった男全員ってわけでもなくて今までに五人ほど」
「ふうん」
「他には押入れが薄く開いててその中から女の目が睨んでいたとか、天井から逆さになった女が睨んでいたとか、部屋をぐるぐる歩いていたとか………」
 元閥は歌うように数え上げた。
「その宿で女が死んだ話ってのはないのかい?」
「聞いたんですが女将はないと言ってます」
 往壓は起き上がって欠伸をした。
「で、元閥先生は、はらったま、きよったま でお払いを?」
「あてもないのに払えませんよ。どういう現象か確認してみないと」
「だったらそのなじみの女将とその部屋で寝てみればいいだろう?」
 往壓が意地悪く言うと元閥は色気のある目元で睨んで見せた。
「女将はねえ、それだけは勘弁してくれって。噂は否定したいけど、幽霊ってのもまったく信じてないわけじゃないんですよ。ひどく怖がりな女で」
「―――元閥さんよお」
「はい?」
「それでなんで俺のとこにくるんだよ、アビでもいいじゃないか」
「アビみたいな唐変木とそんなとこに行ってなにが面白いんですか」
「小笠原さんとか―――」
 言いつのる往壓の唇に元閥が白い指を当てた。
「酒は飲み放題、宿の女たちがお酌をしてくれて、儂の三味線付き。こんないい条件を断るんですか?」
「………まあ、酒は魅力だよな」
「アビの作ってくれた干し肉ももって行きますよ」
「なるほど」
 往壓はごくりと喉を鳴らした。それなら少しばかり自分が食われてもいいかもしれない。


 その日料亭は元閥と往壓の貸切で、部屋には女たちが大勢押しかけた。華やかな雰囲気の中で飲み食いし、歌い踊り、やがて夜が更けて女たちは帰っていった。
「奴さんがでるのは夜明け頃なんだな」
 往壓は一人で膳の上の酒をすすりながら聞いた。
「ええ」
 元閥は床を敷きながら言った。
「ことがおわって一眠りしたあとじゃあどうしても夜明けになっちゃいますよ」
「ふうん………」
 往壓は酒のこぼれた膳の上を見た。膳の上に広がった酒は、小さな手のひらの形をしていた。



 往壓と元閥は床を一緒にして攻防を繰り広げたが、やがて酔いもまわって眠ってしまった。
 それから何刻か過ぎたことだろうか?
 夜中、往壓は誰かが自分の布団の上を叩いていることに気づいた。
(なんだ? 元閥か?)
その感触は最初はぽんぽんと軽く、次第にどんどんと重くなってきた。
(やばいんじゃねえのか? これ………)
 しかしどうにも身体が動かない。必死で重いまぶたをこじ開けてみると………
(うわぁ)
 髪を振り乱した女が自分の上に乗っているのだった。
 女は往壓と目をあわせると、いきなり片腕でぐいぐいと首を絞めてきた。
(げんばつ!)
 往壓は横目で元閥を窺ったが、相手は軽いいびきをかいてぐっすり眠っている。
(くそっ)
 往壓は左手に意識を集中した。金縛りになったときは小指の一本でも動かせれば身体が動く。今までの経験からそれは知っていた。
 しかし女が首を絞める力はものすごく、指を動かす前に死んでしまいそうだ。
(う、う………)
 女の身体は透けていたが、よく見るとこしらえは素人ではない。水茶屋あたりで働いているようにも見えた。こんな恐ろしい顔さえしていなければ、馴染みにでもなりたい良い女だ。
(しかしあの世で馴染みってわけにもいくまい)
 ようやく小指の先が動き、それと同時に身体の力が戻った。
「どけっ!」
 往壓は叫んで左手を女の胸に向かって突き出した。その瞬間、女の姿はかき消すように消えてしまった。
 荒い息を吐いて夜具の上に起き上がる往壓に、元閥も気がついて起きてきた。
「どうしたんです?」
「でたよ」
「おやまあ」
 元閥は眉をひそめ、急いで行灯の灯りをつけた。そして往壓を見てもう一度「おやまあ」と言った。
往壓の首には指の跡がくっきりとついている。
「えらい目にあいましたね」
「ああ、だが手がかりがあったよ」
「手がかり?」
「この指の跡………どっちの手だ?」
 往壓の言葉に元閥は目を細めてじっと赤いあざをみつめた。やがて静かに答えた。
「右手、ですね」
「右手だけだろ?」
「ええ」
「俺の見た幽霊には左腕がなかったんだ」



 翌朝、元閥は女将に言って、部屋の押入れから布団の類を運び出させた。空っぽになった押入れに往壓が入り、床や天井を調べる。やがて天井の板の一部がはずれ、そこから油紙の塊がでてきた。
 幾重にも油紙にくるまれた中からは、すっかりひからびた女の左腕がでてきた。
 往壓たちは小笠原に言って、左腕を失った女の殺人について聞いてもらった。すると一年まえに両国の方でおちかという茶屋女が殺された事件が浮かび上がってきた。その女は死んだ後、腕を肩から切り落とされたという。しかし下手人が見つからずお蔵入りになりそうだった。
「たすけ、という男を当たってもらえないか?」
 往壓は小笠原に言った。
「女の周囲にそういう名前の男がいるはずだ」


 じきに茶屋に足しげく通っていた男の中に太助という大工がいることがわかった。お上の取調べで太助はあっけなく自白した。確かに自分がおちかを殺して腕を切り落としたと。
 太助とおちかは惚れあっていたが、おちかは同じ頃大店の隠居に妾になれと迫られていた。
病気の父親を抱えていた彼女は、貧乏大工の太助よりは、隠居の財産に心が移ってしまったのだ。激怒した太助はおちかを殺した………

「腕を切り落としたのは何故です?」
 料亭へ連れて行ってもらえなかったとすねていたアビは、太助の行動の不思議さに首をかしげた。
「おちかは腕にいれずみをいれていたのさ。たすけってな。そのいれずみが残ってたら自分に疑いがかかるだろ」
 往壓は自分の上腕をなでて見せた。
「刺青を入れるくらい惚れていたのに………最後の最後で恋人を裏切ったんですね」
 しょっぱいものを口につっこまれたような顔でアビが呟く。それに元閥はなぐさめるように言った
「まあ、おちかさんにも彼女なりのわけがあったんでしょうよ」
「それにしても切り落とした腕をどうしてその宿に隠したんでしょう?」
 アビの問いに往壓は軽く肩をすくめた。
「それが意外と簡単な理由さ」
 元閥がそのあとを引き取る。
「小笠原さまからのお話ですがね。太助が言うのは切り落とした腕の処分に困ったそうなんですよ。どこへ捨ててもすぐに見つかる気がして。燃やそうか細切れにしようかとも考えたらしいんですが、自分の名前の名の入った愛しい女の腕でしょう?」
 元閥はアビの渋い顔を見てにっこりした。
「それはあまりにもかわいそうに思えたんですって。で、その夜泊まったこの宿の天井に隠したんです。この宿を選んだのは宿の名前がほら」
 アビはうなずいた。
「―――ああ、確か「おちか」ですね」
「そう、愛しい女と同じ名前の宿です」
 アビは納得がいった、という顔をした。
「しかし、切り落とした腕から下手人の名前がわかるなんて………腕に漢神をつかったんですか?」
「いや」
 往壓のそっけない答えにアビは首をひねった。
「え? だっていくら刺青でも、死んで一年もたった腕なんて、肉は崩れて皮膚だってとけてしまってますよ、そうでしょう?」
 山で獣の死体を見慣れているアビには、肉の腐敗状態から時間を計るのもお手の物だ。
「そうじゃねえよ」
 往壓はにやにやしながら言った。
「腕はしっかりと油紙にくるんであった。一年たてばお前のいうように脂が溶け肉は崩れ、皮膚は腐る。そしてしみだした体液が油紙にじっとりと染みをつくる」
「………ええ」
「油紙に残っていたのさ、―――墨の部分だけ脂がよけて。逆さ文字で たすけ ってな」