「まったく信じられん! 大の大人が幽霊を面白がって覗き見だなどと!」
宰蔵が頬を膨らませてぷんぷん怒っている。
「だったらお前はついてこなくてもよかったんだぜ。ここは大の大人だけで」
揶揄する往壓を宰蔵は睨みつけた。
「わたしはお前たちがふざけた真似をしないかどうか見張っているんだ」
「幽霊が見たいんなら見たいって言えばいいじゃねえか」
「別に見たくない!」
「じゃあなんで・・・」
「仲間はずれにされるのがいやなんですよ、往さん」
一緒についてきた雪輪が雲七の声でそう囁いた。小笠原には聞かれないようごく小さな声だった。
「かわいいじゃないですか」
「くくっ」
のどの奥で笑う往壓を宰蔵は不審な顔つきで見上げる。
「今日はわたしたちのほかには見物人はいないようですね」
元閥があたりを見回した。
お菊の出るという井戸は今は持ち主のいない武家屋敷の中にある。白壁は崩れ、雑草が生い茂り、破れ障子に崩れた瓦の屋敷を背景にした井戸の様子はものすごく、これなら幽霊のうわさの一つや二つしたくなるというものだ。
「昼間なんかはけっこうにぎやかだぜ。女子供が群がって、飴屋やら読み本売りやらが店を出している」
「・・・江戸の人間は・・・」
アビが理解できない、というように首を振った。
「そろそろうしみつだ」
小笠原は星を睨んで呟く。するとどこか遠い場所でゴーンと寂しげな鐘の音が鳴った。
「あ、おい、見ろ」
噂通り、その鐘の音を合図にか、青白い火の玉がふらりふらりと現れた。それは吸い寄せられるように井戸の真上に漂うと、ぽうっと光を大きくした。 井戸の中が青白く照らされる。
「うーん、手順を知っててもなかなかおっかないもんだなあ」
ちっとも怖がっていない口調で往壓が呟く。反対に宰蔵は青い顔をしてガタガタ震え始めている。
「おや、おっかないのかい、宰蔵」
元閥がちゃかすように言って覗き込む。
「ふだんあやかし相手に踊ってみせているとも思えない」
「あ、あやかしは平気だ! だけど幽霊は・・・」
「あれだってあやかしさ。幽霊だと思うのは人の想像」
「しっ」
アビが低く制する。井戸の中からゆっくりと女の姿があらわれた。
「ほう・・・」
目をみはったのは小笠原だ。
「なんと美しい・・・」
「ああいう風情のある年増が好みかい? だんな」
お菊はほつれた髪を一度なで上げるとついと見物人の方に視線をくれた。ぞくっとするような色っぽい流し目だ。
「こりゃ心得た幽霊だね」
往壓がにやつく。
「しかし、なにか顔色が悪くないか」
小笠原が心配そうに囁いた。それに往壓は呆れてつっこむ。
「おいおい、幽霊は顔色の悪いものと相場が決まっているじゃねえか。血色のいい幽霊なんぞ聞いたことがないぞ」
「いやいや往さん」
雲七が長い顔を寄せて口の中で囁く。
「あたしはここのお菊さんを知ってますがね、たしかにいつもより顔色が悪い」
「へえ? そうなのかい。お前もすみにおけないな、雲七」
「なんだ? 竜導」
小笠原が雲七との会話を聞きとがめる。往壓は「いいええ」と手を振った。
「数え始めたぞ」
アビが油断なく身構えた。
「一枚・・・二枚・・・」
「確か八枚くらいまでは大丈夫なんですよね?」
元閥がそわそわする。
「三枚・・・四枚・・・」
「男なら腰を落ち着けてろよ」
「五枚・・・六枚・・・」
「竜堂、そ、そろそろ・・・」
「まあ待てよ」
「七枚・・・八枚・・・」
「や、やばいぞ」
「いやもう一声」
「九枚・・・」
「よし、逃げろっ!!」
「―-―ってこっち違うっ!」
「うわあ、なんでこっちにくるんだ!」
「そっちだそっち!」
「往さん、あたしにつかまって!」
「おいっ、今の声は・・・!」
「十枚・・・十一枚・・・」
「うわあ、死ぬ死ぬ、死んでしまう――っ」
「待て! 俺の漢神で・・・っ」
「十二枚・・・十三枚・・・」
「・・・ちょっと待て」
「早く、早く逃げなきゃ!」
「十四枚・・・十五枚・・・」
「ちょっと待てって言ってるだろ、なんか変だぞ、あのお菊」
「十六枚・・・十七枚・・・」
五人と1頭は顔を見合わせた。九枚まで数えたら一枚足りない、というのがお菊の定番だ。なのにもう十七枚まで数えている。
「おいっ、ふざけんなよ、お菊!」
往壓は井戸の前に飛び出した。いきなり自分の前に立った男にさすがのお菊も驚いたのか、数を数えるのを止めて顔を上げる。
「やいやいやい、お前何考えているんだ。お菊と言えば十枚一揃いの皿のうち、一枚が欠けたゆえのお手打ちの悲しい亡霊、世間ではその理不尽さに涙し同情してるんじゃねえか。それがなんで十枚十一枚、黙って聞いてりゃ調子に乗って、十七枚まで数えやがって!」
「――あいつ、幽霊に文句言ってる・・・」
「けっこうお菊に夢をもってたんだな」
お菊は一度ため息をつくと青白い顔に寂しい笑みを浮かべた。
「そんなにあたしの皿勘定を楽しみにしててくれて嬉しいよ。だけどね、ここんところ連日連夜の人出でねえ。昼間は子供がきゃっきゃっと井戸の周りを駆け回り、夜になれば男衆が取り囲む。あたしが出れば拍手喝采だ。そんなにされちゃ愛想のひとつも振りまきたくなるだろう。だけどそれが思いのほか疲れてねえ・・・」
お菊の言葉に雪輪が首を振ってうなずいている。おなじあやかし同士、わかる部分もあるのだろう。
「それで明日はお休みさせてもらおうと思ってさ」
「そりゃああんたの勝手だが・・・」
「だから今日は明日の分まで皿を数えようかと思って」
「二日分か?」
「そう、これから最後の一枚を数えるけど用意はいいかい? それを数えたら明日の分まで二人分の命をいただくよ?」
「うわっ、ちょっと待てよ!」
往壓は飛びのくと見守っていた仲間たちに声をかけた。
「おい、引き上げるぞ!」
それからお菊に向かうと、
「あんたがそんなに疲れるんならもう見物人がこないようにもできるけど?」
「いやそれもねえ・・・」
お菊はちょっと照れくさそうに笑う。
「だあれもこないと寂しいもんでね。あたしは江戸の人たちの怖い怖いってキモチでできた物の怪さ。そのキモチがなくなれば消えてしまう弱い存在。だからみんなに怖がってもらったり楽しんでもらったりしているうちが花。あさってからはまた元気に皿を数えるよ」
「そうかい。まああんたがそういうなら」
往壓は手をあげた。
「江戸からお菊さんが消えたら江戸っ子は寂しがる。せいぜい頑張ってくれ」
「ありがとよ」
お菊も笑って手を振った。その手がすうっと皿を取り出す。
「・・・十八枚・・・」
そのときにはあやしの五人と1頭は白塀を超えて姿を消していた。